あれほどハサミに脅えたというのに、一度乗りこえると不思議なほど恐怖心はなくなった。安堵したショーコを待ちかまえていたのは、カットモデルという役割とそれに対して異常なほど厳しく指導するエヴァの存在だった。


当日のみのカットモデル。勝負がかかっているとはいえ、素人の自分にできることはおとなしく切られることと、用意された衣装をまとってせいぜいが舞台を行って戻る、そんなものだと思っていたのに。


「again」

あの日、クジャクの女王様は行って戻るだけだろうショーコにウォーキングさせた。それも１度や２度ではない。


「背筋を伸ばすぅ。顎を引く。眼は遠く。足は一直線上。言ってるのはそれだけでしょぉ。頭悪いわねぇあんたぁ」

後ろ頭を肩を背中を腰を膝裏を叩かれる。バンバンたたく割りに痛くない。何で叩いてるのかと見たら、ものすごいゴージャスな扇だった。ベルサイユのばらとかに出てきそうな羽根だらけの。


「あたしのジュリ扇に文句あるぅ？」

ぶるんぶるんと首をふったショーコの背中をまた叩く扇。


「ほら歩いてぇ」

もちろんカットの準備で髪の色を抜いたり入れたりあれやこれや、時間はそっちの方がとられる。結局エヴァを満足させられなかったショーコは翌週まで、朝晩３０分のウォーキングを課せられた。俄にわか　モデルのまねが役に立つとも思えないのに、エヴァに向かってそうは言えない。


「いい？　頭に本乗せたつもりで注意したことを意識してぇ。できれば姿勢が見えるところでぇ」

まだまだ言い足りなさそうなエヴァを、仲間達、特にアダムが引きずるようにして帰ったあと、脱力したショーコにヒデミが言った。


「エヴァは昔モデルだったの。今はエージェンシーもやってる」

本職だとわかってますます自信はなくなる。１日だけのカットモデルに何を期待しているのかわからない。おまけに、棘を感じる。気に入らないところがある、というよりも気に入るところがあるとは思えないのだが。そう思った自分に落ち込む。ヒデミはなだめ顔だ。

「あとちょっとだから。考えるより動いてみてよ。ね」


他ならぬヒデミがそう言うから、自分なりに頑張ってみたこの一週間。言いつけられた朝晩の３０分はもちろん、通勤の行き帰り、仕事中の動作など正しい姿勢と歩き方をとことん意識して。だがひとりで繰り返してもどこが悪いのかいいのか全然わからない。堂々めぐりだ。


祭りも明日に差し迫った夜、歩いて見せたショーコに一人待っていたエヴァは満足せず、それどころか不機嫌に言い捨てる。

「ちょっとぉ、明日が本番ってわかってるぅ？」


あたりまえじゃん。
ショーコは唇をかんだ。


ステージに上がらねばならないのは自分だ。言いたいことがあるならどんなことでも言われた方がいい。こんな風に遠回しのイヤミはたまらないとどれだけ思っても、未熟なのは確かで。

落ち込むヒマもないとばかりに引きずるようにして、エヴァはショーコをまた歩かせ何度も言ってきたことを繰り返した。


「頭のてっぺんは吊られてるのぉ。背筋を伸ばす。眼は遠く。顎を引く。足は一直線上。それからぁ」

最後にショーコの頬は両手ですくわれのぞき込まれた。


「観客はカボチャ。カボチャは美味しい。美味しいから笑顔。いい？」

子どもに言い聞かせるようだった。心配されているというより小馬鹿にされているのか。


「ヒデ。応援に行くからねぇ。子羊ちゃんも周りに食われちゃわないでよぉ」
「エヴァ」

ヒデミの声には牽制が混じる。肩を竦めたエヴァがそれでも笑顔でヒデミを抱きしめて、店を去った。


その後ヒデミは黙々とショーコの髪の準備を続けた。集中しているのか慎重になっているのか口数も減ってろくにしゃべらない。

時々、「色々試したけどやっぱりショーコの肌にはazureがベストね」とか「トリートメントはplanetが合うみたいよ」とか「ブリーチを続けたけど髪はちゃんと手入れするからね」とか。必要なことを言うだけであとは作業に没頭していた。


鏡に映るヒデミの真剣なまなざしは、アーティストという言葉を思い出させた。仕事に自信を持って全力投球する彼女に似つかわしい。

それを受けて自分は。
どうすれば？


明日は祭り。
明日がシザーズ。

ヒデミにとって重大な勝負とわかっているだけに、ショーコの不安は膨れあがる一方だった。