目を覚ましたショーコは時計に気づいてギョッとした。

１１時半？　うそ。

跳ね起きたところで週末なのを思い出してベッドにへたり込んだ。こんなに寝坊するなんて夕べ何やったっけ。心臓はドキドキしているが頭は真っ白だ。ぼんやりとした視線が時計のとなりに紙切れをみつける。


『起きたらLemon へ行ってこい』

筆跡は知らないがメモを残すのはキングしかいない。パアッとそこで全てが甦ってきた。より鮮やかなのは彼の首っ玉にかじりついて泣きじゃくった自分。あちゃぁとは思うがすっきりしている。ショーコはバスルームへ急いだ。



部屋を出ると雨で仕方なく傘をとりに戻った。ヒデミの店まで２０分。雨は嫌いじゃない。狭い歩道を傘で行き交う面倒さとか、ミュールが濡れる厭いと　わしさとかあるけれど、雨そのものを嫌ったことはなかった。

繁華街に入ると歩道は広くなるが、アスファルトがでこぼこして水たまりが多い。足元を濡らさないためにはどう歩こうかと立ち止まったショーコの、視界を誰かが遮った。どこかで見たようなスニーカー。履いているのはやっぱり会いたくもない男。

「……ヒロ」


霊感はないが幽霊に出くわすのってこんな気分かと思った。不機嫌丸出しでビニール傘の下からショーコをにらんでくる。捨てていった男にこんな風ににらまれるなんて理不尽だ。せっかくすっきりした気分だったのに。シクリ、胸の痛みを無視してショーコの目付きがきつくなる。


「何か用？」
「おまえ。シザーズのモデルやるって、嘘だろ」

思いがけない言葉に瞬きする。


「それも。あの人の」
「あの、ひと？」
「ヒデさんだよ。シザーズの第一回チャンピオン。伝説のカリスマ」

ショーコのとまどいが倍加した。ヒロがこんな風に言うなんて。ヒデミさんてやっぱり凄いんだと認識を新たにする。ショーコの逡巡をヒロは否定と受け取ったらしい。ホッとした色を浮かべる。


「ガセだよな。おまえがまさか」
「ホント」

隠したって仕方ない。ショーコは気合いを入れてヒロと向かい合った。戸惑いがヒロへと感染うつ　る。


「でまかせ言うな。あんなに嫌がって、俺が髪切ろうとしたらぶっ倒れただろ。あれ全部芝居だったってのか」
「バカ」
「なんだと」
「救急車呼んで病院までついてきたくせに。救急隊員や医者と一緒に芝居うったとでも？」

ぐっと詰まったヒロは戸惑いを怒りに換えた。


「芝居じゃなかったんなら。できっこないだろうが、モデルなんてさ！」

今度はショーコが詰まった。ほんとうにできるかどうか自分だってまだわからない。夕べキングの髪を切ったことと、自分の髪を切られることは同じではない。それくらいわかっている。でも。


「あ、あたしが出来ない方がそっちには都合がいいじゃん？　何切れてんだか」
「俺はおまえを心配……っと」
「はあ？」

口元をおさえて目を逸らすヒロにショーコは怪訝な顔。何を口走ってるんだろう。言いたい放題でゴミと一緒に捨てていった奴が。自分はあんなに泣いて、叫んで縋ったのに。

言いたいこと、言いたくないこと、ぐちゃぐちゃした感情が入り乱れて頭の中が斑まだら　だ。振り切るようにショーコは言い募る。


「あの晩の女があんたのモデルなんでしょ？　優勝するって宣言したくせに。初代チャンピオンにびびってるわけ。情けない」
「なっ」

イケメンの顔が赤く染まった。反射的に伸ばしてきた手をショーコは思い切り払いのけた。そのことに驚いたのはどちらだろう。互いに眼が泳ぐ。微妙な空気をはさんだ二つの彫像を、壊したのは別の声だった。


「ショーコ？」

気づけば雨は止んでいる。うしろにヒデミが立っていた。輝くブロンド。タンクトップにミニスカート。レギンスの足元はショーコに負けずとも劣らぬ高さのミュール。

これが伝説のカリスマだとは誰も思うまい。ヒロだって。チラと横目で見れば驚きで固まっている。ヒデミはあくまでものんきな声音。


「うちにくるところ？」
「あ、はい」
「良かった。手が空いたからランチ買いに行くのよ。手伝って」

「おい」
「あぁごめん。この娘、浚ってって構わない？」

のぞきこむようにしてニッコリつり上がる艶々のオレンジのグロス。思わずのけぞったヒロがゴクリと唾を飲み込む。笑うべきか皮肉るべきか迷う間にショーコは腕をとられて歩き出していた。


「……ショーコっ？」

あわてて後ろから呼ぶヒロに、首だけねじって叫ぶ。


「シザーズで。負けないから！」

彼がどんな顔をしたのか知らない。向き直れば隣は肩を揺らして笑っている。


「ヒデミさん？」
「言ったわね。シザーズで、って」
「……言っちゃいました……ね」

あ、と気づく。それはつまり。


「もう逃がさないわよ」

さしたままだったショーコの傘を取る、ヒデミの笑みは肉食獣のそれだ。まな板の上の鯉か猫に睨まれたネズミか。どっちにしろ覚悟を決めるしかない。ショーコはため息を押し殺す。


今日も蒸し暑い。
気温は３０度を超え、さらにジリジリ上がろうとしていた。