背中で彼が歩み去る気配がした。

とうとう見切られるかな。そう思ったショーコの耳に戻ってくる足音。どうしてだろう。思考は紡がれずにひとつひとつ、ころころと転がるだけだ。放り出されるだけだ。ジャッっと金物が落ちる音がした。頭を巡らして目に映ったものを認識したとたん、恐れが生まれる。どんどん広がる。

身体を丸めて寝転がっていた背中へと、投げ出されたのは大きな裁ちばさみだった。どうして。弛緩していた身体は今や強張り、硬直に近い。鼓動が早い。


「とれ」

キングの声が真上から降ってきた。ギギッと軋む音が聞こえそうな動きで見上げる。金の瞳に強く見下ろされている。


「起きて、つかむんだ」

ショーコは小刻みに首を振った。無理。今は動けない。


「持つんだ。君が手に取れ」

何を言いたいのか。苛めたいんだろうか。


「ほんとの負け犬になりたいか」

人を動かす力を持った声だった。抗あらが　えずショーコは身体を起こす。ぐっと奥歯を噛みしめ止や　まない震えを必死で止める。少しずつ前に伸ばす手はまるで他人の腕だ。投げ出されているハサミの光る刃に触れぬよう、思い切り不自然に手をひねって二輪の取っ手に指をかけた。


事件の後、生活の中でハサミを使わなかったわけじゃない。積極的にではなくてもハサミを使うことは少なくないし難しくもなかったのに。今、自分が怖れているのは何だろう。ようやっと手にしたハサミの重さ。

キングの声がまた遠くに聞こえた。振り返ると彼はダイニングのカウンターに座っている。ショーコに背を向けて。


「こっちだ」

あやつられるようにのろのろ歩み寄ると、彼の前には大きな鏡が立てかけられていた。その中から見つめてくるキング。


「俺の髪を、切れ」

ひっ　とこぼれた声。ショーコは再び硬直した。





鏡の中、キングのうしろに顔色をなくしたショーコが映っている。今にもぽきんと折れそうで、折れない。自覚はないだろうが彼女は強い。理不尽な現実にいためつけられながらも歪まない強さ。それが彼女を追いつめもする。

二度三度、首を振ると火消しの纏まとい　のように散っては添う彼女の髪。この数日ヒデミが手を入れていたのがよくわかる艶だ。


「切るんだ」

またふられる首。全身の震え。


「ショーコ」
「できない」

声は悲鳴に近づく。


「ハサミを持った男が怖いんだろう？　今、ハサミを持ってるのは君だ」

ショーコの眼で動揺がピンボールの如く跳ねている。

「君が、力を持つんだ」


『賭けは分が悪いほど燃えるのよね』

ヒデミの意見にはキングも賛成だ。分が悪すぎるかもしれないがこの賭けはそれだけの価値がある。


「君はちゃんとコントロールできる。心も。身体も」

言い切ると鏡の中で、ショーコの眼がまた大きくなる。色を増す虹彩にキングは不本意ながら見惚れた。彼女の眼こそ宝石だと思った。





新聞で見た犯人の顔は無気力で、ショーコを脅かした人物とは別人のようだった。その後は会っていない。会いたくない。もし、会ったら。

殺してしまうかもしれない。

ざわざわと心の奥底で蠢く感情に、フタをして知らぬふりをしてきた。



事件以後、事情聴取も裁判も周囲の反応も全てがショーコを苛んだ。何の理由もないのに。ないからこそ受け入れがたかった。むしろ自分に落ち度があった方が楽だとすら思った。

何一つ接点もなく理由もない男から受けた三日にわたる恐怖のあと、誰もショーコが悪くないとは言ってくれなかった。母ですら。理不尽な現実が残した傷はひとり心にしまい込んで隠した。

繭のように後生大事に。


ハサミを持つ男が怖かったのは、それが誰であれ次は自分が刺してしまいそうだったから。気絶はそれを未然に防ぐための自己防衛だった。

今になってショーコ自身もようやく悟ったことを。


『コントロールできる』

出逢って数日であっさりと言い切る、彼の背中は大きい。あの男はもっと小さかった気がする。ごくりと生唾を呑み込んで空いている方の手を伸ばした。そっと触れるキングの髪はやわらかくて毛先に少しクセがある。あの男はどうだったろう。覚えてない。そう覚えていない。輪郭もあやふやな影にいつまでも脅かされている。


「ショーコ」

鏡の中から強く、でもあたたかく見つめてくれる瞳の金色。
裁ちばさみは本来、髪を切るものではない。刃を駄目にしてしまう。


「切るんだ」

ためらいを、呪縛を。
ショーコの中に凝り固まって、今にもさなぎへと孵かえ　りそうな怒りを。
自分自身への恐れを。


断ち切れと、彼は促す。


息が荒くなる。ハサミの感触を確かめたショーコは髪に刃をあてる。噛みしめる奥歯とともに意志を持ってそれを切り落とした。

シャキン。
脳内に響く、音。

ここは夢の中じゃない。切られているんじゃない。
自分が切っている。キングの髪を。
ハサミで。


「もう一度」

別の一房を手にしてまた、その先を切り落とす。ほんの少し。床に散る前にパッとまき散らされるほどわずか。


「もう一度」

切っている。
殺しもせず刺しもせずに。


「ショーコ」

まだぼおっとした顔をキングが鏡の中からみつめる。


「君は何も悪くなかった。君は自分で逃げ出した。犯人はつかまった。苦しくてもこうしてちゃんと生きてる」

まじまじとショーコがキングに見入る。


「ハサミは君を傷つけない。君がハサミで誰かを傷つけることもない」

ショーコの顔が歪む。


「頑張ったな」

裁ちばさみが床に落ちた。椅子に座るキングの首っ玉に後ろからショーコはかじりつく。


涙が、叫びが、あとからあとからこぼれて落ちた。後ろ手になでてくれるキングの手のひらが哀しいほど温かかった。