シャッ。
シャキッ。

その音は、夢の始まり。


アパートの一室。カーテンもない狭い部屋に張りめぐらされたアニメのポスター。壁際を埋める本棚には天井まで積み上げられた漫画とビデオテープ。ちゃちなパイプベッドの上はモノが散乱し、蛍光灯の豆電球だけつけた室内は薄暗く静かで。スモークの硝子窓の向こうで点滅する看板と、行き来する車のヘッドライトやテールランプだけが、進む時をかろうじて示していた。

ガムテープで口は覆われている。後ろ手にされた両手首もやっぱりガムテープでひとくくりにされていた。細いハサミをもてあそびながらすぐそばに立てひざで座り、思い出したようにショーコの髪を一房つかむ男。シャキンと鳴るたび命を切り落とされる気がする。


ハサミを握る男と自分だけの空間に圧迫される。
息が苦しい。

また伸びてくる手。
ハサミが。
自分を。



「っっ！」


とびおきると同時に「みゃっ」と何かがわめいた。疾走する蒸気機関車よろしく鼓動が全身を打ってくる。肩で息を継いでしたたる汗を拭う。目に映る光景をショーコはゆっくり認識した。キングのマンション。借りている部屋だ。数日ですっかり見慣れた室内。

カリカリと音がする方へ目を遣ると、閉じたドアをジンが爪で引っ掻いていた。さっき聞こえたわめき声の正体を合点する。ひとしきりカリカリやってから、ジンはショーコに向かってみゃあと鳴いた。


ベッドの上の自分を見下ろした。じわじわと戻ってくる記憶はLemonでの一件。キングがハサミを持っているのを見てパニックに襲われたこと。焦った声がとぎれとぎれに自分を呼んでいた。

『ショーコ』


両手で顔を覆った。情けない。やると啖呵を切ってみせたくせにこのザマだ。ふたりとも呆れただろう。諦めただろうか。

カリカリとジンがまた扉をかく。ベッドから足を下ろすと、ふらつきながらもショーコは立ち上がった。キングはいるのかどうか。いるなら逃げずに語らなければならないと思った。これ以上迷惑をかけないためにも。





押したドアの隙間から強い酒の香りがした。スルリとジンが忍び込んでいったリビングは薄暗い。誰もいないのかと思ったが違った。リビング中央に立つフロアスタンドは仄かに丸い灯り。その足元のソファでグラスを傾けていた彼がこちらを向く。みつめあう一時。

「大丈夫か」


静かな声音に気遣いを聞き取る。チクリと申し訳なさを感じながらショーコは頷いた。スッと手が差し出されて考える前に足は進んだ。

彼のそばにたどり着くのと伸ばした左手が包み込まれるのは同時だった。同居して何日か経つが、意識してふれあったのはわずか二度。

今と。
それからあのキスと。


ソファの彼と立っているショーコの目線はあまり変わらないが、斜め後ろからあたる光で、サングラスの下の瞳は見えない。でもいたわられているのがわかる。


「まだ手が冷たいな」

引っ張られ彼の横に座らされた。ショーコの手に渡されるグラス。無色透明な液体がゆらゆらと揺れている。


「飲んで」
「こんな強そうなの無理」
「一口だけ。倒れたら眠ればいい」

無茶言うなぁと思いながらそれ以上は逆らわずに、ショーコはグラスに口をつけた。苦さと甘さは喉元を過ぎたとたんに熱さに変わる。思わずむせて咳き込む。熱が全身を駆けめぐるのがわかる。


「何これ」
「ジン」

彼の膝で丸まっている猫を見下ろすと、押し殺された笑い声。


「オランダ発祥の酒だ。ジュネヴァって銘柄。ちなみにこいつのフルネームは、ジンジャー」
「ジンジャー？」
「ショウガだ」

尾を振り回して文句があるかという顔でショーコを舐める金の瞳。先夜みた、同じ色の瞳を探してショーコはキングを見上げた。そこで聞かれる。


「話す気はあるか」

首を振りかけてやめた。足掻いても仕方ない。


「聞いてくれるなら」

微かに口の端を上げる彼に、もうひとつだけ頼み事。


「サングラス。　とってくれる？」


ショーコを見守る金の瞳が二対になった。何故と言わずに受け入れてくれたことに思ったよりもはるかに慰められて、勇気を振り絞る。


「…高三の夏前だった。知らない男に監禁されたの」



静かな薄闇がノースリーブの素肌を包む。
肌寒さは心の恐れ。
言葉を選びながら負けまいと、ショーコはきつく奥歯を噛みしめた。