週末の夜はいつもどおりだった。

珍品堂の終業時間に迎えにきたキング。
Lemonに入った時のヒデミの笑顔。
誰もいない店内。鏡前のカット用の椅子。

短い間とはいえ繰り返された手順に安心しきっていたから、衝撃は余計に大きかった。


スッと、ショーコの後ろに立ったのはヒデミじゃない。鏡に映るヒデミより背の高い姿。もう帰ったと思ってたのに。

「キング？　何か……、　！」


彼の右手にハサミ。

言葉がショーコの喉にこびりつき、瞳が大きく見開かれる。ハラリ、幕を落とすように顔色が失われて、扉の札を準備中に掛け変えたヒデミが振り返り息を呑んだ。

そんな彼女を注視しつつキングはハサミをシャッシャッと二度三度鳴らす。釘付けになって瞬きもできないショーコの、眼だけがどんどん見開かれる。虹彩が縮こまる。

キングが、ショーコの髪に触れた途端だった。


「っ、　ゃっぁぁああ！」

椅子から飛び跳ねて逃げたショーコは、鏡に背合わせになり対峙する状態でさらにキングから後ずさる。構えた姿勢のままでキングは唖然としている。


「いや！　……っないで、さわら、ないで」

追いつめられた獣の叫び声に似ていた。両手を顔の前で振り回す様は悪い夢に脅える小さな子どもだ。痛々しい。全身の震え。荒い息づかい。ヒデミの眉間にきつく皺が寄る。


「あっちに行ってええ、っっ、……！」

絶叫が途切れる。喉に手をやったショーコはすでに中腰だった状態から座り込んだ。喉元に手を添えパクパクとあえぐ。溺れる魚を思わせる。とびついたキングが華奢な身体を抱え込んだ。ヒデミも驚く。息が？


「ショーコ、落ち着けっ」
「ひっ、っ、ぁっ」
「おちつけ。もう切らない。大丈夫だ。吸って、吐くんだ」

呼吸しようとしてできない苦しさにもがくショーコの、顔が青ざめていく。


「き、キング」
「過呼吸だ。ヒデ、袋。ビニールでもなんでもいい、早く！」
「ふ、ふくろ？　えっとえっと、ハイッ」

オロオロしながら差し出したビニール袋をひったくったキングが、痙攣をおこしかけているショーコの鼻と口を袋で覆った。背中をさすりながら言い聞かせる。


「ゆっくり吸って、吐くんだ。ショーコ？　聞こえるか？」

見ているしかないヒデミにとっては数秒が永遠に思えたが、ショーコの顔色に色味が戻るのがわかった。ようやく自分の呼吸もできると思った矢先、深く吸いこんたショーコががくっとのけぞって、またあわてる。


「ちょ、ショーコ？　き、きゅ、救急車？　携帯！」

ポケットの携帯をとり落としかけるヒデミを、キングが宥めた。


「大丈夫だ。呼吸は戻ってる。気力を使い果たしただけだ」
「……おどかさないでよ」

気力を使い果たしそうなのはヒデミも同じで、しゃがみこんだ場所からしばらく動けなかった。歩けるようになってからタオルで、冷や汗でぐっしょりのショーコの額や喉元をふいてやる。


「ねえキング。…この子？」
「……そうだな」

それきりふたりは黙った。

盛り場にはいろいろな人種がいる。極端に言うとここは犯罪の被害者と加害者、もしくはその予備軍が集まるところだ。ショーコの反応がどれかと聞かれれば一目瞭然で。


「…やっかいねぇ……」

分の悪い賭けよりも間近に迫ったシザーズの勝負よりも、ショーコの傷にどちらも重い気分になるのはどうしようもなかった。





気づかないショーコをキングは部屋へと連れ帰った。ドアをあけるなり足元にじゃれついてくるジンが危なっかしい。


「ジン。のけろ、こら」

しつこくまとわってくるのはどうやら、ショーコを抱いているのが気に入らないらしい。いつもならともかくさすがに今はキングも笑えない。


「邪魔するな」

少し邪険に、でも乱暴ではなくジンをかわしたキングは、ショーコが使っているゲストルームに向かった。ベッドに下ろす。重いと言ってやりたいが生憎ちっとも重くない。ちゃんと食べているのだろうか。


ショーコを泊めて以来ここへ入ったのは初めてだが、意外なほど散らかっていなかった。くたびれたキャリーバッグはカバーが半開きになって衣類が見えるが、それもちゃんとたたんで詰め込まれている。ふたつあった紙袋からもさして物は出されていない。

キッチン同様に洗濯機もこれまで使った形跡はみえなかったが、そこは女の子だ。コインランドリーですませているのだろう。Lemon のロゴが入った紙袋と化粧品の山を除けば、出ている荷物はパジャマ代わりの短パンにＴシャツだけ。あまりにも住む人間の気配が薄い。住んでいる主張がない。


立ち上がるとベッドサイドにあった文庫本を手に取った。恋愛小説かと思ったが、中身は有名洋楽曲の訳詩集だった。しおりがはさまっているのは「セイリング」。いい曲だがこれまた今時の若い子の趣味からははずれていると思う。

横たわるショーコの顔を見下ろしたキングは、胸の中でごちゃごちゃ渦巻く感情の中からわずかな後悔をみつけて驚いていた。



若い頃は地雷原を歩くような毎日だった。思いつきや行き当たりばったりで何かをやっては、後悔するのが日常茶飯事の。いい加減嫌気がさしたあたりで決めたことがある。

行動は熟慮して、やると決めたら結果で後悔しない。

生きていく上で、特に事業や店の経営に手を染めたら難しいことだが、ろくでもない後悔はあらゆる手を考えつくせば減らすことができた。そうするうちに判断ミスは滅多にしなくなった。

今日のことだって、ヒデミがショーコを使うと言い出した時からいずれはやらねばならないとわかっていた。やるしかなかった。だがやり方はもっと選べたのではないか。後悔は久しぶりだ。千慮の一失？　どちらかというと。

「驕おご　りだな」

キングは自分を断じた。ショーコの若さや幼さが目くらましになって、彼女の傷を、原因を軽く見たのだ。人は表から図れるものじゃないのに。こんな風に追いつめる結果は全く本意じゃなかった。


「…っあっ」

眠っているはずのショーコが身をよじった。まぶたは閉じているのに顔が歪み汗が額に滲む。さっきのことが悪い夢を呼び起こしてしまったかもしれない。キングは伸ばした指先で汗を拭った。いつも体温が低めの彼は手も冷たくて、それが心地よかったのかホッとショーコの表情が緩む。キングの手にすり寄る。


「…悪かった」

聞こえないとわかっていて詫びを囁く。応えるように寝息が聞こえた。いつの間に入ってきたのか、ジンがベッドに音もなく飛び乗った。


「起こすなよ」

言われなくても。そんな視線を返したジンは、ショーコの身体に寄り添って丸くなる。フッと笑ったキングがタオルケットをかけてやると細い声がミャアとないた。