翌日の午後、キングはヒデミの店を訪れた。
受付にいたのはバイトの青年。たしか名前は。

「いらっしゃ…あ」
「ツトムくん。あ、じゃないでしょ。ここらの顔に挨拶なさい」

ヒデミの突っ込みにツトムがあたふたする。


「す、すみませんキング」
「俺にあやまることはない。客でもないのに邪魔して悪いな」

無意味に威張り散らさないのがキングだ。たとえバイトの青二才相手でも。それが彼をより大人に見せるのだが、気遣いのせいで危険を察知し損ねたようだ。


「キッングうーっ！」

とびつかれてよろめいた。見下ろす相手は細身に見えて鍛えた筋肉の持ち主で。


「エ、ヴァ。来てたのか」
「やーだ。他人行儀な台詞」
「身内にはなってないぞ、ありがたいことに」
「もう。つれないんだから、キングったらぁ」

ちょっとやそっとでは動じないキングを辟易させるエヴァは、繁華街の店主のひとりだ。

彼女が経営するのは「ブーケ　Bouquet」。　ゲイの集まるハッテン場の中でもピカイチの大人の店。美人の店主は性格がまた強烈だ。ホスト時代からキングのファンを自負しており、ちゃんとパートナーがいるくせに会うたび迫ってくる。ヒデミにとってはお得意さんで、友人でもあった。


「聞いたわよ。仔猫ちゃん拾ったんですって？」
「そうよエヴァ。可愛いんだから」
「ヒデミまで気に入るなんて珍しい。妬けるわぁ」
「ただの居候だ。ヒデ、奥で待ってる」

キングに言われてヒデミは頷いた。


「ハイハイ、エヴァ。仕上げちゃうからね」
「やだー、キング行っちゃうのぉ」
「またな、エヴァ」

人をそらすことのないキングが極力逃げる、エヴァは数少ない一人だった。



店奥のスタッフ休憩スペースは狭い。スタッフはヒデミとツトムだけだからしょうがないが。キングは堅めのソファに腰を下ろしている。カーテンが開いた。

「シザーズのこと？」

ヒデミは単刀直入だ。


「大きく言えばな。ショーコは。どうだ」
「どうって」
「おまえに髪を切らせそうかってこと」
「うーん」

カフェエプロンに櫛をさし、腕組みしたヒデミが唸る。


「毎晩お手入れしてるから大分慣れたとは思うんだけど。話もしてるし」
「当日切れなきゃどうにもならん」
「そう、なのよねぇ」
「試してみるんだな」

ヒデミのマスカラビシバシのまつげで縁取られた目が丸くなる。


「へーきそう？」
「それを試すんだろ」
「でも」

「人がいない時間帯が良さそうだな、とりあえず」
「どうして」
「少なくとも二度、気絶したことがあるらしいから」

「髪を切るだけで？」
「切ろうとしただけで」

げ、と口を曲げ、ヒデミは眉間をおさえる。


「そりゃずいぶんと……手強そうね」
「あきらめるか」
「馬鹿言わないでよ」

キッと眦をあげてヒデミがキングをにらんだ。


「あたしもショーコに賭けてるんだから。分が悪いからって逃げを打てるもんですか。それに」

スッと目を細めたヒデミは、肝の据わったふてぶてしい顔になる。


「分が悪いほど燃えるのよね。賭けって」

事実だが、ショーコにすれば嬉しくもないだろう。荒療治になりそうだと予想しながらもキングはやめようとは思わなかった。

やるしかない。ヒデミの、勝負の、何よりもショーコ自身のために。それでもあの、ビー玉みたいな眼が恐れに染まるのは楽しくないだろう。無意識に気持ちが重くなる。


そこにもあった。
キング自身も気づかないほど微かな、兆しが。





「ショーコ。入り口脇の文庫本、片づけといてくれるかい」
「はぁい」

積み上げられてある山。手に取ったのはツルゲーネフだった。「初恋」薄い黄ばんだ本をパラパラとめくりながらショーコはぼんやり考える。


初恋は小学校５年生だった。その次は中学２年生。どちらもみているだけの、告白なんか思いもしない憧れのようなもの。閉じこもりがちの内気な少女だった頃。

内面とは対照的に成長するにつれ、ショーコの外見は人目をひくようになった。いわゆる美人の顔立ちではないのに自分ではわからない何かが周囲から自分を浮き立たせる。焼いても焼けない肌か不思議な色合いの髪か、細身の体つきか顎を引いて前を見据える眼か。

中学生の頃は理不尽に思えてしょうがなかった。ショーコにすれば得などしたことがなく嫌な思いばかり。知らない人に誘われたりつきまとわれたり、痴漢にあったり連れ去られそうになったこともある。助けて欲しい時に母が居てくれたことはなく、ひとりで切り抜けるしかなかった。自ずと他人に対してガードは堅くなっていく。高校へ入る頃だったろうか。


「あんた固すぎ。余計に目立つの。もうちょっとなんとかならない？」
「……どういう意味」
「素で目立つって言うなら化粧してみたら」

娘の気持ちなどお構いなしに、化粧台から乳液や化粧水、ファンデにルージュを手あたり次第取り出して押しつけてくる母。

「物は試しよ」

なんて人だろうと思ったが、意外にも母の提案は当たった。化粧することでショーコは、女子高生の群れに紛れることができるようになった。木を隠すなら森へというわけだ。初めて自信らしきものを手にしたからだろうか、告白されるようになっても彼氏は作らず、新たにみつけた自分に夢中になっていたショーコ。

あの時までは。


暴走手前で記憶を押しとどめる。瞬間、全身に走った震えは受け流し過ぎ去るのを待った。パンと頬を両手ではたくと改めて文庫本の山を抱えながらまた考える。

高校以前の淡い憧れ。
卒業以降の身体で寂しさを埋めるような関係。

今、自分の中に育ちつつあるのは、どちらにも似ていてその実どちらにも似ていないものだ。強いて言えば「初恋」という言葉が呼び起こす切なさを、もっと強く鮮やかにしたような感情の、兆し。


だからどうする。
どうなるっていうの？


ショーコの中に、答えはまだひとつもなかった。