その夜、珍品堂に迎えに来たキングがショーコを送っていったのは、自宅だった。


「ヒデミは今夜、急な予約で手一杯なんだ。夜は珍しいんだが、たまには稼がないとな」

それはそうだと納得する。毎晩店が閑古鳥では赤字もいいところだ。


「俺もまだ仕事がある。ちゃんと鍵をかけろよ」

それだけ言うと運転席のウィンドーは閉まって、キングの車は駐車場を滑り出ていった。なんとなく置き去りにされたような気分。ショーコはぶんぶん首を振ってエレベーターへと向かった。


部屋の前で取り出した合い鍵は、あの日キングにもらったものだ。

実にあっさり躊躇なく渡されて逆に驚きだった。ヒロみたいに、あれは触るなここは開けるな、ああしろこうしろと色々うるさく言われるかと思いきや、キングは何一つ制約も指示もしなかった。せいぜい「帰らないことがあったら、猫にエサをやってもらえると助かる」とだけ。転がり込むのはこっちだというのに。


大人なんだなぁと今さら思い返しつつドアの鍵を閉め直す。ふりかえったショーコはビクッと身を退いた。光る眼がふたつ、ビームのようにショーコを射る。

「……ジン、脅かさないでよぉ」


キングの飼い猫とショーコの関係は接触が少ないこともあってまだこの程度だ。とりあえず威嚇はしないがすり寄ることもない。部屋主よりよっぽどいばられてると思う。

「キングは仕事だってよ」


背中の猫にそう言いながら、ショーコにすると部屋ひとつ分とれそうなほど広い玄関の上がり口でミュールを脱いでそろえる。向き直るとジンは長い尾をピンと立ててリビングへと去るところだった。足取りまで飼い主に似て優雅に見える。こういうのなんていうんだっけ。時代劇でよく使う言葉。確か。

「小癪な奴」

ぴったりの言い回しに満足して、ショーコは自分の部屋へと引き上げた。



晩ご飯はいつも珍品堂ですませている。開店１０時、閉店８時の勤務時間。朝が遅いショーコは昼ご飯は抜いてしまうことが多い。晩ご飯は宝円と一緒に食べる。これは雇われた時の条件みたいなものだ。

「あんたも知っとるとおり、わしはいつもコンビニで晩飯を買うとったんじゃがな、二人なら店屋物をとろうかと思うんじゃ。つきあってくれんか。お代はいらんからの」


それじゃ悪いとショーコは主張したのだが、宝円は頑なに聞き入れず甘えることになってしまった。ショーコにしても気の合う人となら誰かと食べるほうが嬉しいに決まっている。それもこれも客が少ない店だからできることだろう。

その割りに仕事量は少なくない。怠けたりしないショーコだが、次から次へとやることは減らず。毎日はとても忙しかった。キングのところに移ってからは仕事が終わるとLemonでヒデミと打ち合わせが続いていたし。こんなにゆっくり時間がとれたのは久しぶりだ。


「ふわ〜〜あ」

大きな湯船に身を沈め、ショーコは思い切り気の抜けた声をあげた。贅沢な気分だ。凝り固まった肩や腰がお湯の温みに解けるのがわかる。座り仕事が多いので１日の終わりには身体が強張っていた。


珍品堂は見かけに寄らず設備は最新だ。空調も微妙な温度設定ができるし湿度も同様。本は湿気や気温で傷むから宝円に言わせるとそれがあたりまえらしい。おかげで労働環境は季節に関係なく快適なのだけれども。まだ二十歳過ぎたばかりなのに、肩こりがひどいのは子供の頃からでショーコの悩みの種だ。ゆうべヒデミに愚痴ったら笑われた。

「あんたったら、若いくせに年寄りみたいね。髪や肌と一緒に、お風呂で身体もマッサージしなさい」


そうだ。髪と肌の手入れがあった。昨日までは深夜、半分眠りかけでやっていた。せっかく時間があるのにやらなかったら怒られてしまう。洗面所に置いてある一式を取ってきて、ショーコは気合いで取りかかった。


およそ１時間半後。バスルームから出てきたショーコはへろへろだった。疑問も湧く。女の子っていつもこんなにお風呂に時間をかけるものなんだろうか。

「……死んじゃうよ」


つくづく自分は向かない気がする。おまけにまだ終わってない。髪をタオルドライしてヘアクリームをすり込む。肩甲骨を過ぎる長さの髪はこうした手入れに時間がかかる上、ボリュームが足りないのが不満だった。

蒸しタオルでまとめたら基礎化粧品で肌の手入れだ。面倒くさい。面倒くさいがコットンを手にする自分が嬉しいのも確かで。相反する懐かしい気持が高校生のころの自分を、その先の記憶を呼び起こしそうになる。危ういところで切り換えた。


「終わりっと。あー…のど乾いちゃったなぁ」

風呂に時間を取られすぎたようだ。今さら外へ何か買いに行くのは嫌となれば、キッチンを探索するしかない。


キングは最初に言った。
「リビングとキッチンは好きに使ってくれて構わない。冷蔵庫の中身も」
言われたけれど踏み入れなかったのは遠慮。それとなるべく彼の領域を侵したくなかったからだ。

ヒロと居た時も大方外食で、食事を作ることは稀だった。嫌いなわけではないが一人ならまず作らない。朝は途中のコンビニやファーストフードですませてばかり。そんなわけでこれまでキッチンに誘惑されることもなかったのだが、喉の渇きが絶対的欲求と化してショーコは決心した。


誰もいないのに忍び足で廊下を進む。玄関のすぐ脇にあるリビングへショーコはそっと入った。入るのは最初の晩以来だからスイッチの場所はうろ覚え。確かこの辺……あった。

一気に明るくなったリビングの中央を記憶どおりにソファが占めている。その上からショーコを見据えているのはまたしてもジンだった。どう見ても不法侵入者へ抗議の眼だ。眠っていたのかも知れない。


「あ、あのねぇ。喉が渇いたんだってば。キングの許可はもらってるし」

わかったのかわからないのか、尚もじっと見つめられたあと、ゆっくり眼をそらす態度からは声が聞こえるようだった。
（ふーん）

「かっわいくない」

文句の声を潜めたのは居候の遠慮だったが、考えてみればあの猫だって居候だ。しみじみ癪に障る。ジンを見ないようにしてショーコはリビングを突っ切りキッチンへ向かった。


冷蔵庫には予想以上に色々なものが入っていた。食材、果物、飲み物。あんなに忙しいのに料理するんだろうか。脳裏にはご馳走になった素麺が浮かぶ。するんだろうな。飼い主も癪だ。

野菜ジュース、フルーツジュース、ミネラルウォーター、ビール、ワイン、ウーロン茶。飲み物だけでこのバラエティ。おまけにショーコが見たことのないメーカーや銘柄ばかり。一人暮らしの彼が大型冷蔵庫を備える理由。キングって買い物魔なのかもしれない。

「すごくもてるだろうに。女が必要ないタイプ？」


綺麗に整理整頓された庫内。賞味期限切れなんてあり得なさそうなのが癪の１００乗だ。ショーコがミネラルウォーターの２リットルボトルを引き抜いた時だった。

「う、わっ…何よ、あんた」


素足に触れたフワフワした毛並みに驚いて足元を見下ろした。いつのまにか真下にいたジンがショーコを見上げている。暗がりに光るガラス玉ふたつ。


「何よ。あんたも喉乾いたの？」

にゃあと鳴くのを肯定とみなしたショーコは、キッチンの隅にあったネコ皿を洗って、ミルクを注いでやった。とびつくようにして飲み始めたから間違ってなかったようだ。つやつやの毛並みに触れてみたかった。でも逃げられるとがっかりするから諦めて、自分の欲求を満たすことにする。


重みがあって複雑なカットグラスじゃおそれおおいが、それしかみつからない。えいやっという気分で入れたミネラルウォーターごと、両手で抱えるようにしてペタペタとリビングへ戻った。実はソファ目当てだ。ローテーブルにグラスを置いて立ち止まる。

最初の夜にはキングが、さっきジンが居たソファは今無人だ。いいかな。いいよね。誰もいないのにキョロキョロあたりを見回したあとでそっと、本当にそっと、ショーコは腰を下ろした。重みにそって少し沈み、やがて跳ね返してくる弾力は初めての触感。ソファに感動するなんておかしいだろうか。

「…すごい」

指を滑らせる革は黒。冷たさが肌に心地いい。座面も背もたれもすべらかでおろしたてみたいだ。手入れがいい。…ジンは爪をたてないんだろうか？


「みゃあ」
「ひぇっ？」

ひょいとソファに飛び乗ったジンが、ショーコの反対側にうずくまった。前足に乗せた顔。視線はちらりとショーコを見たものの、仕方ないとでもいいたげな。なんとも人間くさい態度の猫だと思う。


「あんたって絶対飼い主に似てる」

ふてくされてショーコがつぶやく。みゃーと返してくる鳴き声にキングの声がかぶって聞こえた。
『そりゃ重畳』

「あぁもう」


ジンへの文句を諦め、グラスを手にポフッと背もたれに寄りかかった。極上の座り心地を全身に感じながら喉を潤すのは贅沢な気分だ。水が美味しい。一気に飲み干したグラスを置いてもう一度ソファに身を預ける。

ふと、ヒロのことを思い出した。忘れていた事実にも驚いた。あの、絶望的な疲れ果てた気持ちは決してウソでも仮初めでもなかったのに。するりと抜け出している自分はなんだか嫌な女に思える。一歩間違えば路頭に迷っていた。見知らぬ男にやられちゃったかも。今の状況に、キングに、もっと感謝すべきだろうか。


ソファの上で膝を抱えショーコはジンを真似てうずくまってみた。ヒンヤリした革が温もっていく。誰かに抱かれているような温度。いつしかショーコは眼を閉じ、寝入ってしまった。