仕事が終わるや、ヒデミの店に送り届けられる毎日が続いた。店に客はいたり居なかったり。ショーコにすると鏡の前に座らされて井戸端会議をしている方が多い気がする。

細かく時に実践を伴ってレクチャーされる髪と肌の手入れ、メイクの基本は勉強になるし、ヒデミは確かに「プロ」と言い切るだけあって、わかりやすく教えてくれるのでショーコも気を入れて学び覚えたが、大部分の時間は役に立つとも思えない雑談ばかり。


「あんたってホント、コミュニケーションを知らないわね。若いのに」

ショーコがそれを問うと、ヒデミはいつもの調子で呆れた声を返してくる。


「コミュニケーションてのは無駄が８割。無駄が大事なの」
「それっておかしいよ」
「おかしくないわよ。たとえば」

店の中央にガラスのボウルが置いてある。色々な果物がかぐわしい匂いを放っている中から店名と同じレモンを取ったヒデミは、それをショーコの手に置いた。つやつやした手触りとツンとする香り。わけがわからず瞬きを繰り返すショーコに聞く。


「これは何？」
「レ、…モン」
「そう、レモンよ。レモンについて語りなさい」
「はあ？」

謎かけだろうか。ショーコにはちんぷんかんぷんだ。


「酸っぱくて黄色くて甘くて」
「それじゃ名前を言うのと同じでしょうが」
「だって。何言えば」

「思い出すこととかないの？」
「ええー？　急に言われたって……ヒデミさんなら語れるわけ？」

少しむかっ腹をたてたショーコに、ふっと黙ったヒデミは手からレモンを取り上げた。


「あたしねぇ。ゲイだって自覚したのは中学の時なの」

ヒデミの手の中で弄ばれるレモン。艶のある黄がライトで光る。


「今みたいに、ニューハーフとかミスターレディーとかの言葉も無い頃だから。カミングアウトなんて有り得なかったし、親にも友達にも絶対言えなかった」

ショーコは知らず息を潜める。ヒデミの気持ちは多分判る。


「高校時代は部活でバスケットやってたの。あたしタッパもあるし運動神経も悪くなかったから。女の子にも結構もてたのよ。興味はなかったけどね。興味があったのは…好きになったのは同じバスケ部の仲間で」

ヒデミの、男のわりには細いでも骨太の長い指が、キュッとレモンの肌をぬぐう。


「試合のたびに彼がつきあってた女の子がレモンを差し入れに来るの。ほら、砂糖漬け。甘くて酸っぱくて美味しいのよね。あたしたち仲間にも分けてくれるの。彼女がつまむレモンを彼がパクッと食べたりして」

眼が細くなるのは思い出しているのだろうか。その光景を。


「彼女になりたかったわ。レモンを彼につまんであげたかった。有り得なかったけどね。あたしはお裾分けのレモンを自分でつまんで食べるだけよ。甘くて酸っぱいの。そりゃあもう…泣けるほど」

黙りこくったヒデミを鏡越しにみていたら上げた視線がぶつかって、ニカッと笑われる。


「ってな風に話すのよ」
「……え？　あの、え？」
「レモンについて。語ったでしょ、あたし」

確かに語ったが。


「まさか、ウソ？」

むっとしたショーコが睨むと逆ににらみ返されてしまった。


「失礼ね。あんたと知り合いたいからよ。こんな昔話いつもは頼まれたってしないわ」
「……ヒデミさん」

彼女がさっき言ったことを思い出した。
『無駄が大事なの』
言いたかったことがちょっとわかる気がする。


「で？　あんたのレモンは？」
「……小さい頃は果物って滅多に食べられなかったの」

突き出されたレモンを手にしてショーコがポツボツ話し出す。


「いくつだったろ。小学校行く前。珍しく母さんとスーパーに行ったんだ。買えるわけもないのに色々な品物が珍しくて」

うっすら笑みを浮かべるショーコを見ていたヒデミが背中に気配を感じた。いつのまにかキングが居る。黙ってろと口元にあてる指。


「レモンが山積みで安売りしてた。丸くて黄色くて光ってきれいな」
「うん」
「なんでかな食べたことなかったのに。甘くて美味しい果物だって思った。母さんにお菓子をひとつだけ買ってやるって言われてレモンを指したの。あれが欲しいって」

手に持っているレモンを両手で包み込む。温めるのはレモンなのかそれとも。


「家に帰って。ナイフで切ってかぶりついたとたん大泣き。甘くないんだもん。ただ酸っぱいだけで」
「お母さんはなんて？」
「自分で選んだんでしょ、って」

レモンを頬にあてるショーコを鏡に映らない陰からキングが見つめる。


「ずっと。レモンは見るのも嫌だった。美味しいって思えたのは中学生になってから」
「そう」

ショーコの視線はまた鏡の中へとさまよっていった。レモンを語ったはずなのに昔が透けてしまうもの悲しさ。でも、ヒデミは微笑む。


「みつけちゃった」
「何を？」
「あたしとあんたの共通点。レモンは酸っぱい」
「…それってふつうじゃん」

笑いながらも、胸の痛みが少し和らぐのをショーコは感じた。

そうか、コミュニケーションてこんな風にとるんだ。元々得意じゃなかった上、逃げがちになっていた人との関係。作り上げた壁に小さな穴が空いて、風が吹き抜けたような気持ち良さ。


「で？　キングは？」
「キング？」

ギョッと振り返ったショーコは死角から現れたキングに眼を見開いた。


「やだ、居たの」
「あぁ」

悪びれもしないのが彼らしい。


「人が悪いわよねぇ。あんたの番よ。レモンの話」

押しつけられたレモンをみつめたあと、キングはニヤッと笑った。


「話はないが、芸なら見せてやろう」

ボウルに積み上げてあったレモンをさらにふたつ取った彼が、いきなり始めたのはジャグリングだった。その巧みさ。３つのレモンは知らぬ間に４つになり５つになる。操る手は片手になったり前に後ろに回ったり、くるりと一回転したり。一度も落とすことなく回し続けたキングは、最後にレモンを全て受け止めピタリとポーズを決めた。ヒデミとショーコは思わず拍手喝采する。


「すごいすごい！　プロみたい！」
「何、あんたって大道芸もやるわけ？　始めて見たわよ」
「奥の手はそうそう見せるもんじゃないだろう？」
「あー、待って待って」

またボウルに戻そうとするキングをヒデミが止める。レモンはもちろんそこにあったオレンジ、キウイ、メロンまで手近の紙袋に詰め込んでキングへ差し出した。


「あげる。今日届いたばかりだから食べて」
「いいのか」
「もちろん。投げ銭用意してないし」

クスクスと笑い合う二人。わずかの言葉で通じ合う関係がショーコには羨ましかった。やがてキングがショーコを呼ぶ。


「帰るぞ」
「うん」
「また明日」

ヒデミに手をふったショーコは改めて、キングの呼びかけに慣れてしまわぬよう自分を戒めた。築いた壁の中ひとりで生きていくための防衛本能だとも気づかないで。