わざわざ来てくれたイナリに、お茶と生菓子を並べてのばらは向かいに座る。湯飲みから一口飲んでホッと息を吐いたイナリは思い出したように、持っていた封筒から雑誌を取り出した。

「何でしょう」
「あいつが書いた小説が載ってます。読んでください」
「彼が？」

イナリが自ら頁をめくり、のばらへ差し出す。タイトルは『WILD　ROSE』とある。好奇心もあり、のばらはすぐに読み始めた。

中編の私小説風の作品だった。たくましくて強くてひたむきな女・ローズ。彼女に出会ってふりまわされる主人公。勝ち気だが情にもろくて心優しいローズに、はじめは興味で近づいた主人公は、いつしか深く愛するようになる。愚かなろくでなしの主人公に時に怒り、時に愛想をつかしながらも、ふたりはつかず離れず、長い人生をともに歩んでいく。

孤独に生きてきた主人公はローズによって憧れとは違う出会いの不思議さ、すばらしさを知る。次第に強まっていくローズへの想い。ローズが主人公へ向けるまっすぐで純粋な愛情。

気づいたら唇をかみしめていた。アラシの死んだとき、それからすみれが死んだとき、涸れるほどに泣いたのに。涙はなぜ尽きることなく湧いてくるのだろう。見守っていたイナリがつぶやくように小声で話す。

「結婚してしばらくしてから持ってきたのがこれです。いいと思った。案の定、雑誌に載せたら反響が多くて。もう少し膨らませて単行本にしないかと言ったんですが、あいつは首を振りました」
「どうして」
「同じことを尋ねたんですが答えはもらえなかった。でもこの作品であいつの評価は上がって、いろんな仕事が来るようになりました」

一呼吸おいてからのイナリの言葉は、質問と言うよりも断定だった。
「これはあなたですね。あなたと、アラシ」

のばらは肯定も否定もしなかった。
ふと、気になったことを確かめる。

「これを、すみれは？」
「いや。マイナーな雑誌ですからアラシが見せなければ気づかないでしょう。あいつは見せなかったと思いますし」
「彼は」

アラシのために釈明しなければいけない気がしたが、何を言えばいいんだろう。迷うのばらを安心させるようにイナリは手を振ってみせた。

「あなたとアラシとつきあってたのは知ってました。すみれさんと結婚する前に別れたのも。小説家ってのは因果な仕事で、自分の過去も客観的に分析してばらばらにして再構築してしまう。アラシはすみれさんに誠実だったし大事にしてました。理想のマドンナを得てあいつは幸せでした。わかってます」

「イナリさん」
「その幸せはあなたのおかげだ。あなたがふたりの結婚を進めたのはすみれさんのためはもちろんだけど、ほんとはあいつのためだったんじゃないかと、僕は思ってるんです」

のばらは答えられなかった。イナリのごつごつした指がのばらが持っている雑誌をめくって、タイトルを捜し当てる。

「ワイルドローズ。最初はストレートに主人公を指すんだと思ったんです。そう言ったらアラシの奴、ふふんて笑って。書いてみせたんですよ、『荒野のばら』って」


『読めよ』
『読めって、コウヤノバラだろ』
『違う。コウヤじゃなくて、アラシノ、だ』
『アラシノ？　コウヤじゃなくて？』
『そう』
『アラシノノバラ？』


「アラシノノバラ？」
コウヤと何が違うんだろうと首を傾げたのばらに、イナリがゆっくり繰り返して言う。

「アラシノ　ノバラ」

のばらの眼が大きく見開いた。そこに見る見る涙がこみあげてこらえる間もなく流れ落ちていく。

「すみれさんはあいつの理想の女性でした。でも、のばらさん。あなたは運命の女性だったんじゃないかと僕は思います」

耐えきれなくなって両手を顔で覆った。声を上げて泣きじゃくる。イナリはその隣で、何もなかったように冷めた茶を飲み、生菓子を食べてくれた。のばらが泣き止むまで。



帰り際、イナリは心配そうに聞いた。
「まだ独身なのに、二人の子どもを育てるのは大変でしょう」
のばらは笑って流した。

「すみれとアラシの子です。大事な甥と姪ですよ。私の宝物です。祖母もいますし。イナリさんも顔をみせてくださいね。彼のことを颯に教えてやってください」
「わかりました。たいして役には立てませんが、いつでも駆けつけます」
「ありがとうございます。これからも変わらずお願いします」


門までイナリを送ったあと、家に戻る手前でのばらはふと立ち止まった。
空は今日も高く遠い。


最後までろくでなしなんだから。

でも好きだった。愛してたわ、アラシ。
ありがとう。さよなら。

彼岸でもすみれと仲良くね。


イナリにもらった雑誌を抱きしめ、空に向かってそう囁く。
これでほんとうに終わった気がする。

さあ、戻ろう。颯とささらが、祖母も待っている。
明日からまた仕事も頑張らなきゃ。
やりたいこともある。やらなきゃならないと思うこともある。
会いたい人もいる。忙しいわよ。大変だけど平気。

だって私はのばら。
野に咲くばらだもの。


ふわりと微笑むのばらに、曇り空から一条の光が注ぐ。
新たな蕾をつけようとする彼女を、励ますかのようだった。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜　WILD　ROSE　/　end　＞