戻ってきた現実。
そうだ。ホストクラブMan　HallのＮＯ．２。　ユウ。
思い出した。思い出したけどこの状況は…何？　彩芽の焦りは減るどころか３倍・４倍増し。

どこだかわからないけど、ここはホテルだろう。結構高そうな。おまけにダブルベッドなんて初めて、じゃなくて。そこに彼と自分が、一糸まとわぬ姿で一緒にいるわけは？　どうして。どうなってるの？
理性が理解しようとしている現状に、感情が激しく抵抗している。第一、目のやり場がなかった。だって裸。

彩芽の表情を読んでいたユウは、とりあえず思い出せることは思い出したとわかったらしく再び嗤った。記憶と同じ笑い方。
「ちょっとは現状認識した？」
パクパクと、死にかけた魚みたいに空気を求めていた口から、やっと言葉が飛び出す。
「してないわよ！　なんであたしはあなたと、それも素っ裸でいるわけ！？」
くっくっくっと肩が揺れてる。色気も素っ気もない台詞なのはわかってても、思い焦がれた人とならいざ知らずこんな現状受け入れられない。しかも失恋ドツボ。ブリザードで凍死寸前なのに。

「どこまで記憶にあんの？」
ユウはシーツをかぶせた彩芽をつかまえたままで、呑気に煙草を吸い始める。それが様になるから困る。その腕は細身なのに力があって。タトゥーが見えた。それすら色っぽくて顔がほてる。なんとか逃れようとしてみるものの、いくら暴れても無駄でおとなしくなるしかない。
「ブリザードからの脱出方法を聞いたあたり…」
「なんだ、覚えてるじゃん。だから、こうなったわけ」
「…は？」
三段論法どころじゃない。百段くらいすっ飛ばしている今のは。
その　『だから』　でここから月までいける。間違いなく。

「脱出方法が？　これ？　これって…」
「SEX」
切れ長の眼がニヤッと細くなる。
「…したの？」　聞くのも今さら。
「全然覚えてないのか？　結構燃えてたくせに」
「やっ、やめてぇえええーーー！」
彩芽は再びシーツをかぶって突っ伏した。


頼むから服を着たい。でないと話もできない。彩芽の半ば懇願にユウはやっと放してくれはしたが。ベッドから抜け出そうとする彩芽から視線をはずさない。楽しげに。
「あ、あのね。あっち向いててよ」
「今さらだって。服はそこの椅子の上」
「わかってるから」
今さらって言われても、彩芽にすれば見ず知らずの男なわけで。ああ、許容量を超えて飲んじゃいけない。日本海溝くらい深く反省しよう。彩芽は心に深く刻む。
やれやれと言った風情でユウは背中を向けてくれた。ダッシュで服を抱え込んだ彩芽はバスルームへ飛び込んだ。

やっと息がつけた。ついでにシャワーを浴びて着替えよう。そう思った矢先。鏡に映った自分の体に彩芽は釘付けになった。　ぐぇ。
胸に。腹に。腰に。振り返ると背中にまで鮮やかな赤い点々。瞬間湯沸かし器のように沸騰した彩芽の頭に、靄のような記憶が甦った。

細くて長い指。
大きな手。
サラサラとした髪の感触。
それから唇。

認識しているようでしていなかった現実が、再び降ってくる。それをだめ押しするあからさまな痕。足から力が抜けそうだ。
怒っていいはずなのに。そうよ、これは本来泣くべきところじゃない？　なのに。心に記憶と共に刻まれているのは甘い砂糖菓子の後味。それを強引にねじりあげて気力を保ってとにかく服を着た。幸い見えるところには痕は残ってないようだ。これも意図的だとしたらとても彩芽が太刀打ちできるレベルではない。泣きたくなる。

バスルームを出るとユウも着替えていた。ジーンズなのは何でだろう。夕べは確かにスーツだったけど。白いシャツが妙に似合う。椅子に座って煙草をくゆらせている。その横顔にピアスが光った。最初に目に付いた銀のピアス。黒ヒョウの牙のよう。綺麗だ。そう思うのも悔しい。
ユウは彩芽に視線をむけるとニッと口の端をあげた。
「いくつあった？」
「え？」
「数えなかったか？」
………ボッ。
「あ・あ・あなたねえええ」
確信犯だ。咄嗟に枕をつかんだ彩芽にもう一度投げてきた言葉。
「見ろ。ブリザード脱出も簡単だろ」
ハタと手が固まった。
「今のあんたがブリザードの中なら、常夏の島もブリザードだって」
涼しい顔でそう言って、また煙草に火をつける。
彩芽は自分の中の感情をまじまじと見直した。

決して立ち直ってない。痛みが消えたわけではない。でも。
あの鬱。どうしようもなかったマイナスの塊。それが今どこかに消えているのも確かだった。

そんなばかな。ホントにこれが脱出法？　知りもしない男と寝ることが？

彩芽の中に渦巻く狼狽をどういうわけか彼は正確に読みとれるらしい。
「言ったろ？　体から始めてみればいいって」
「はい？」
意味が分からない。体から。何を？
「あんたは、４年ごしで大事に温めてたはずのものを無くして、氷河期ブリザードだったわけだよな。でもさ、恋愛は長さや心だけで決まるとも限らないだろ」
「…気持ちよりも？」
「体から始めてみるってことで。結構相性はいいみたいだぜ。あんたと俺。どう？」

めまいがした。ここは日本。相手は日本人で、言葉は日本語。なのにこうも理解できない言葉があるとは。

別に純情可憐に生きてきたわけじゃないけど。
少なくとも好きな相手がいて。とりあえずそれを第一に行動してきた。この４年間。大事なのは気持ち。そう思ってたのに。
ひっくりかえった世界。壊したのは好きだった人で。自分はそれを認められずに鬱に飲み込まれ、溺れかけて。
なのにその鬱は『体から始めよう』なんて吐く涼しい顔の、初めて逢ったホストとのSEXで何故か薄れ、消えかけている。

自分がものすごく情けなかった。
こんなに頼りなくてどうしようもないのかと。


煙草を吸いながら彩芽を見ていたユウはからかいの表情を徐々に隠し、やがて吸い殻をもみ消すと立ち上がった。それにも気づかず自分の中に埋没していた彩芽は、不意に抱きしめられて我に返った。
ぎょ。　なんでまた？
硬直した耳元に響くのは覚えのあるビロードの声。

「どうしようもなく真面目にやってきたんだろ、あんた。それでうまくいかなかったんなら、しばらく不真面目にやってみれば？　それでもなんとかなるもんだぜ」
からかいでも意地悪でも皮肉でもない声。嫌なはずの抱擁が温かいなんて。

「不真面目にやるって誰とでも寝るってことなの？」
口調がきついのは、うろたえたせいと泣きそうなせいだ。
「いや。ゲーム」
声と言葉が裏腹。また理解不能だ。
「ゲーム？」
「気持ちじゃなくて、体から恋を始められるかどうか。試してみれば？」
「そんなの無理だと思う」
「ゲームだから。そう思えば勝っても負けても楽しめるだろ」
彩芽は腕の中からユウを見上げた。その顔には不敵な笑みが浮かんでる。なんだか怖くなる。
「考えるよりやってみた方が早いぜ。とりあえず、イントロは入っちゃったしな。この先を続ける気があるなら電話くれれば」

差し出されたのは名刺。
『Club　Man　Hall　　天川　右生　てかわ　ゆう　』

「携帯番号は俺のだから。そのつもりがあったら連絡しろ。改めて説明してやる。もちろんやらなくても構わない。それはあんた次第」
何がなんだかまたわからなくなる。彩芽のあごをつかまえた右生は唐突にキスを落としてから、スルッと扉へ消えていく。
「ホテルの勘定はいらない。縁があれば、またな」


ぱたんと閉まったドア。取り残された彩芽。

頭は疑問符の渦。
体には赤い痕。
唇には唇の感触。

全部彼の落とし物だ。確かに鬱からはすくい上げられたかも知れないけど。ひょっとしたらさらにとんでもないところへと放り込まれただけじゃないのか。


混沌の中で彩芽は、決然と戦闘態勢に入っていた。
あの黒ヒョウみたいなホストの誘いに、すでに乗りたいと思っている自分自身と。