「これ」

美羽の部屋。
差し出されたコートにののが息を呑んだ。受け取る手が震える。


「このコート着てたから、怪我が軽くてすんだの」
「……そう…だったの…」

指先で撫でる、ガラスで切り裂かれた痕。


「お墓参りにね、行こうとしてたの」

美羽の言葉にののが顔を上げる。


「お花を買って、丈さんと待ち合わせの相談してるところで」

娘をみつめた彼女は深く息を吐いた。


「偶然よね。でも」

コートをなでさする指も震える。





息子は若いくせに、いいものを大事に長く使いたがる子だった。父親がそういう性格だったからか。ライター然り。コートも然り。

有名ブランドのコートは、成人した記念にと買ってやったもので、でも学生の身ではもったいないからとなかなか着ようとしなかった。


『着ない方が勿体ないわよ？』
『流行りすたりのない形だし。就職したら着るからさ』
『変な子ねぇ』


結局、２度か３度袖を通しただけで、永遠に着ることはなくなって。

どうせならと美羽に渡したけれど、これもなかなか着なくて。今年ようやく袖を通したと思ったら。


「……あんたを守るために残してたのかしらねぇ」

問いかける先は神様ぐらいかと、ののはひとりごちた。




母の呟きを美羽は黙って聞いていた。説明なんてつかない。何故かなんて誰にもわからない。そういうことがあるのだ。事実を受け取ることしかできない。


「それ。明石のお寺で、供養してもらえるかな」
「……そうね。そうしようか」
「うん」
「美羽」

コートと一緒に美羽は抱きしめられた。母の声が擦かす　れる。


「無事で良かった」
「…うん」

最近の自分は涙もろい。年かなと思いながら美羽は何度も頷いた。





残された階下でコーヒーを飲んでいた二人。向かいに座っていた温が、ぐっと丈に顔を寄せ声を潜める。

「丈くん」
「は、い？」

まだ温に名前を呼ばれるのは慣れない。何か企んでいるんじゃないかと身構えてしまう。


「頼みがあるんだが」

ほらきた、とは言えないものの。


「何でしょう？」
「披露宴の席のことなんだがね」

どんどん温の声が低くなるので聞き取るのに苦労する。


「披露宴の席、ですか」
「ひとつ増やして欲しいんだ」

意味がわからなくて丈は眉を寄せた。ひとつ余分にってのは。


「親族のテーブルに一人分、…空いた席を用意してもらえないだろうか」

顔を伏せた温のか細い声。丈は言わんとすることを合点した。それは。


「空いた席じゃなくて、明石くんの席、でしょう？」

温がゆっくり顔を上げる。弱いまなざしににっこり頷く。


「僕もそのつもりでした。式にも写真で参列してもらえると嬉しいです」
「いいのかい」
「お願いします」
「……ありがとう」


温が丈の手を握った。強く込められた力に丈は、彼の哀しみを考えずにはいられなかった。親として、男として。もしも自分が彼だったらこんな風に強く生きていけるだろうか？

尊敬を込めて握り返す、手。



「ふたりして何やってるの？」

美羽の声にパッと振り返ったふたりは、凝視されてあわてて手を放す。ののが感心したように言う。


「お父さん、丈さんと仲良くなったのねぇ」
「な、何を言ってる。私はだな」
「照れなくていいのに。ねぇ丈さん？」

美羽のからかいに丈は返す台詞がない。それよりも。


「あの」

やいのやいのと続けていた三人が振り向く。そっくりな動作はいかにも、親子だ。


「明石くんの墓参りに行きたいんです。皆さんで一緒に行ってもらえませんか？」

丈の言葉にそれぞれが顔を見合わせた。やがてゆっくり笑みになるのを見守る。美羽が丈に微笑んだ。泣いたのだろうか、濡れている瞳。胸が痛くなる。


「ありがとう」

彼女のうしろから、温とののがやっぱり潤んだ眼でそう言った。自分が泣くわけにはいかない。丈は堪えて笑顔を作った。





一段と穏やかな、すでに春を思わせる陽気だった。平日の今日は霊園に人も少ないだろう。４人でゆっくり参ったらもしかして、彼が現れるかも知れない。それは丈ひとりの思い。


「丈くん、安全運転で頼むよ」
「もちろん」
「心配ないわ。お父さんよりずっと上手よ」

「聞き捨てならんな美羽。お父さんはずっとゴールドカードで」
「あら私もよ」
「…ののさんはペーパードライバーだろう」

「ゴールドはゴールドでしょ。ほら」
「お母さん出さなくていいから」
「行きますよー？」


にぎやかな笑い声の車内。
少し開けた窓から香るのは、近所に咲く桃の花。


４人を乗せた丈の車はゆっくり走り去っていった。





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