「これで全部？」
「はい、きれいさっぱり」
「なにもないと広いな」
「ワンルームでも、ですね」

引っ越し業者に挨拶した美羽はからっぽの部屋を見回した。こんなに早くここを離れるなるなんて思わなかった。初めて一人で暮らした部屋だ。名残惜しさはもちろんあるが、丈に恋して丈への思いに右往左往した部屋から、引っ越す先が丈のところなら文句はない。


年明け、婚約がまとまってすぐに準備を始めた結婚式は親の、というより美羽の父・温の文句やら抵抗もくぐり抜け、やっと十日後に本番を迎えようとしている。

丈がちっとも協力してくれなくて迷いに迷ったドレスも、葵やのの、道江の助言でどうにか決めることができた。二次会は葵と光に任せてあるので何の心配もない。

忘れていて危うく頓挫しかけた新婚旅行も丈の根性と旅行会社の努力でどうにかクリアできた。あとは当日を待つばかりだ。式までの短い間、美羽は実家へ戻ることになっている。

丈を見るたび縁の不思議を実感する。自分の幸運も。こんなに幸せでいいんだろうか。


「寂しい？」
部屋を見渡していたら後ろから聞かれて首をふった。

「まさか。今度はふたりになるんだし」
「ふたりと一匹、だろ」
振り返ったら美羽の鼻先でカメがじたばたしていた。抱いているのはもちろん丈だ。亀がカメを。ぶっと吹き出したらあきれられた。

「飽きもせずに受けてくれるよ、美羽は」
「単純だから」
「こいつ、今日連れてっていいよな」
「でも明日から出張でしょう？」

言ったとたんに丈がみるみる不機嫌になった。カメの顔をのぞき込みながらブツブツと並べるのは彼には珍しい文句だ。

「俺は仕事が好きだし社長も尊敬してる。部署にも仲間にも、仕事内容も概ね満足してるが、今回だけは承伏しがたい。なんでこのタイミングで出張を言い渡されるんだ。式まで十日だぞ」

「丈さんじゃなきゃだめな仕事だからでしょう？」
「俺ひとりで作ったわけじゃない。俺じゃなくたってなんとかなるさ。式に間に合わなかったらどうしてくれるんだ」

子供みたいだ。彼がこんな顔を見せるのも自分だけと思うとそれも嬉しかったりする。馬鹿みたいと思うけれど、恋に落ちたらみんなこんな風になるんだろうか。この人が好きだ。ほんとうに、大好き。


ドクンと、鼓動が跳ねた。

あわてて胸を押さえる。この頃こういうことが増えた。幸せだと思っているのに突然不安に襲われる。なにが不安なのか。彼が好きで彼に愛されて家族も友達もみんなが祝福してくれているのに。

「美羽？」
「え、あっと」
物思いにふけってしまったらしい。カメを抱えた丈がのぞき込んでくる。

「心配しなくていい。いざとなったら仕事を放り出して戻ってくるから」
どうやら自分の愚痴を本気にとったと思ったらしい。そういうわけじゃないのだが。

「放り出すんじゃなくてしっかり片づけて戻ってください。でないと新婚旅行が心配です」
「クライアントに泣いてすがられても新婚旅行は」
「丈さん？」

戒めの代わりにちょっと眼に力を込めてにらんでも、丈はあっさりかわしてしまうのだから。
「万難を排して戻る」

苦笑しながらうなずいた。丈が言うのだから間違いあるまい。そう信じられる。信頼している。彼を。ならこの不安はいったい？　精一杯の笑顔を向けながら丈が気づきませんようにと美羽は願った。





らしからぬことだが丈は気づかなかった。日頃から人の顔色とか気持ちを読むことに長けている男が、式を控えた愛しい彼女のことだというのに気づかなかった。末代までの悔悟と後に彼は語るが、それも仕方ないかもしれない。

浮かれていたのだ。
幸せに。


たとえば一年前、「来年の今頃あなたは結婚式を今かと待っているでしょう」などと言われても笑い飛ばしていたに違いない。事実は小説より奇なり。出会った季節が一巡りしないうちに結ばれようとしている。でもおかしいと思わないから重症だ。恋は病気。「恋わずらい」と呼ばれる意味がよくわかる。

それにしても結婚式まで半年、長かった。いや普通、短いほうだと上司や既婚者の同僚に言われるが、彼らはきっと知らない。花嫁の父がいかに難しい生き物かを。


ずいぶん打ち解け仲良くなった美羽の父・温だが、式に対して趣味かトリビアか、ほんとうは結婚に反対なのかと思われるくらい難癖をつけまくってくれた。風水から方位学、ホテルの名前から担当者の顔つきまでありとあらゆる物に対してクレーマーぶりを発揮したのだから。温厚温和が聞いて呆れる、とは決して口にできない丈だけの嘆息だ。それでも彼の、娘や家族に対する深い愛情を知っているから、折れるしかなかったけれども。

幸い、式が近づくに連れて温の意識は、娘と歩くバージンロードの歩数と歩幅と音楽と歩き方でいっぱいになっているらしい。父親としての晴れ舞台。冗談にもこけないように必死なのだろう。チャペルを選んだのは正解だったとほくそえんでいるのは温には内緒だ。


十日後、ふたりは新たなスタートを切る。パートナーとして共に歩き出すその日を丈は文字通り待ち焦がれている。明日から出張に出なければならないのは非常に不本意だが仕事となればしょうがない。

彼女は実家に戻るから心配ないし、式前に娘と過ごせるのを温もののも喜んでいるだろう。万難を排してというのは本音で本気だが、せっぱ詰まらぬようにさっさとトラブルを片づけてこよう。


「あと１０日か。待ち遠しいな」
「はい。……早く戻ってくださいね」
「ああ」

すぐそこの結婚式とその先に広がる未来を見つめていた丈は、美羽の中に潜む不安をやっぱり見逃してしまった。


いっぱいの幸せに小さな不安を隠して、離ればなれで式までのカウントダウンを刻むことになったふたり。


結婚式まであと、１０日。





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