エレベーターは上半分がガラス張り。途中階から外が見渡せる。すっかり暮れた街並みに浮かび上がって大小様々に瞬く光もどんどん眼下に落ちていく。東京なら珍しくはない光景に見惚れてしまうのが美羽だ。
「きれーい」

さっき光に天然かと聞かれたがそれとは少し違うと思っている。素直なのだ。他人にも曲げることなく向ける言葉はどちらかといえばねじれ気味の自分や光には新鮮で。知らぬ間に答えも素直になる。
「綺麗だな」
こんな風に。



最上階にあといくつというところでエレベーターは停まった。丈がとった部屋はスウィートまではいかずともリビングとベッドルームが別れたかなり贅沢な一室。予想してなかったのか美羽が戸口で固まっている。
「ほら」
入ってくれないと困るので背中を押す。やっと覚悟を決めたらしく、少ししゃちこばりながら足を運んでいった。閉めるだけでカチリとかかるロックになんだかホッとした丈だ。

とりあえず捕獲。勝負はこれから。



こんな高そうな部屋は初めてだ。最初は緊張していた美羽だが一歩踏み込むと好奇心が勝った。部屋の隅から隅まで探検して行く姿は住処を確かめるウサギに似てると丈は思った。
「このソファ、ふかふか」
「ねえ、バスルーム凄い可愛い。コスメがね」
「ミニバーまであるの？うわぁ」

すっかり上がったテンションは実は不都合だ。じっとしてもらわないと話ができない。
「丈さん、あっちは」
「美羽」
ベッドルームをのぞきに行こうとした美羽の手を丈はしっかりつかんだ。
「ん？」
「こっち」


手首を捕まれ引かれてついていく自分は小さい子どもみたいだと美羽はおかしくなる。でも今は逆らう気になれない。丈のつかみ方がなんだか一生懸命に思えたから。座り心地のいいソファに腰を下ろした丈は、当たり前に美羽も隣に座らせた。
「少し落ち着こう。部屋は逃げない」
「逃げたら怖いです」

上着を脱ぎクッと笑った丈は、ネクタイをゆるめＹシャツのボタンをひとつはずした。会社で見慣れている「切れ者の亀沢さん」からするりと別人へ変わる。こぼれる男の色気を美羽もすでに知っているから、困る。
「み、源さんと」
再び緊張に囚われた美羽がとりあえず何か話題を探す。

「ずっと仲よかったんですか？」
丈の太い眉が微妙に上がって下がった。
「まぁな。あいつはふたつ下だがうちは中高がくっついてたんだ。高等部の生徒会で一緒になった。」
「生徒会」
「俺もあいつも先輩にひっぱられたクチでさ。俺のあとあいつが会長やってた」

「てことは丈さんも生徒会長を？」
「あぁ」
「似合いそう」
「どうだか。卒業してからは機会がなくて、７年ぶりに社員研修で出くわして驚いた」
「すぐわかったんですか？」
「お互いな。昔からもてる奴だったけど一段と磨きがかかってたし」
「・・・人のこと言えないでしょう」


呆れた目つきの美羽に丈はやばいと口を閉じた。なんでこんな話になってるんだか。思う方向とは逆じゃないか。過去の悪事を追求されたらそれこそアウトだ。
つくづくこれまでの自分を脳天気だったと振り返る。相手に気持ちを求めないから怖いものなどなかった。うまくいかなければそこでジ・エンド。未練も執着もあり得なかったというのに。目の前の女性はその気になれば、自分の息の根を止めることすらできる。臆病にもなろうというものだ。



彼の緊張を感じた。どうしてだろう。どうしたんだろう。今夜はいつもと違う。迷いなく突き進むブルドーザーの如き自信の代わりに、奇妙な覚束なさが見え隠れしている。何か良くないことでもあるんだろうか。
深呼吸した丈がやっと覚悟を決めたように手を握ったまま見据えてきた。
「美羽」
「な、何？」
美羽の緊張も倍加した。こんな時彼女の頭脳は突飛な想像へ走りがちだ。それも妙に現実を縫い合わせながら。



丈さんは今夜最初から変だった。いきなり源さんが現れた。
源さんは大阪支社から異動になる。
丈さんは暮れに大阪に呼ばれてた。
もしかして。
ひょっとしたら。
入れ替わりに丈さんが大阪へとか？　暮れは引き継ぎで？
じゃ引っ越し？　遠恋？　まさか別れ！？
『言うこと言うて』　『カメさんをくれぐれも』
あれは転勤に負けずに頑張れってこと？　だからわざわざ、だったら？
別れるなんてやだ。離れるなんて無理。一週間でも辛いのに。
・・・そうだ私も転勤願いを出したら？　
それがいいそれしかないそれがベスト。それで解決。



この間十数秒。なまじ頭の回転が早い美羽はあっという間に仮説を引き出し組み立て、検討し問題点を挙げ対策を練った。
その結果。
「大事な話が」
「私も行くから！」
凄い勢いで叫ばれた丈は出鼻をくじかれ絶句した。


「ダメなんて言わないでしょ。少し遅れるだろうけど年明けにすぐ転勤願いを」
「転勤？　どこに？」
「大阪に決まってるじゃない」
「なんで大阪に行くんだ？」
「あなたと一緒にいたいからよ！」
「俺？　俺が大阪へ行くのか？　いつ？」
「いつって異動が」
「異動？　誰が、どこへ」
「どこって・・・・あの・・・あれ？」

明らかに食い違っている会話に面くらい、美羽がとりあえず口を閉じる。大車輪で回してきた思考にブレーキをかけながら、困惑でしかめ面の丈をみつめる。

「・・・えっと・・・大阪へ異動・・・じゃない？」
「誰がそんなこと・・・まさか光か？」
丈の顔が険悪になりかけるのであわてて否定する。
「違う違う」
「じゃなんでそんな」
「だって！　あなた今夜はずっと様子がおかしいし、源さんは突然来て思わせぶりなことばかり言うし。おまけに改まって話があるとか」

だんだん脱力する丈に美羽の声も小さくなる。
「だから・・・・てっきり・・・」
「俺が異動だと思った」
「そ、う」
「で、もしかしたら別れ話かとか」
「・・・えっと・・・」
「ふーん」
表情が読めなくて美羽は対処に困った。怒ってるのか面白がっているのか。

「で、美羽の結論は転勤願い？」
「だって。遠恋はイヤだし別るのはもっとイヤ」
「７０点」
「・・・・・は？」
うつむきかけた顔をあげるとソファに丈がふんぞり返っていた。何だこの豹変ぶりは。
「別れるのも離れるのも却下はポイントだけど、もうひとひねりして」
「ひとひねりって」

十数秒での決断は美羽にすれば、清水の舞台から身投げのレベルだ。これ以上どうひねろと言うのか。空中三回転？　頭の歯車が軋む。そこへさらに。


「結婚だな」


間違いなく歯車が停まった。
えっと、いま、何を。
凍り付いた美羽に対し鷹揚に彼は繰り返す。

「結婚」
「だ、れと」
「俺と」
「だれ、が」
「君に決まってる」
念押しする美羽に丈はにっこり。
「えええええっ？」

ソファが許す限りあとずさった美羽に丈は思う。部屋で良かった。バーやレストランじゃ見せ物になっちまう。いやそれもいいかも。もはや勝利を確信している丈だが、何事もツメが肝心だ。


「異動願いを出すくらいなら結婚する方が確かだ」
「そ、りゃそうかもしれないけど」
「何。異動はできても結婚はできないとか」
「えっ」
「実は借金のカタがある」
「ないです」
「他に好きな人がいる」
「まさか」
「俺が嫌い」
「そんなことあるわけないでしょう」
「じゃあ？」
「結婚します！」
「二言はなしだぞ」
「はいっ　・・・って・・・あれ？」

何か変。絶対変。どうして私宣言してるの？
まさかこれってもしかして・・・・・・・・・・・ぷろぽぉず？
したの？　されたの？　こんなはずみでどさくさで行き当たりばったりで？
頭の歯車はネジごとぶっとんでガタガタ。混乱の極みに投げ出され茫然自失の美羽だったが。

左手に何かがはめられた。ぼんやり見れば薬指にリングが光っている。
青い輝きは３月の誕生石。今日さんざん眺めていたのだから間違いない。店で見たどれより美しいカットとデザインが美羽の細めの指を彩る。

はずみでも、どさくさでも、行き当たりばったりでも、ない？
美羽の手を固く握りしめた丈は真剣だ。


「白兎、美羽さん」
「は、はい」
「俺と結婚してくれますか」


この人はもう。落として言わせて指輪はめてから何を聞いてるんだろう。
文句よ文句言うべきだわ絶対。
怒って嫌ですってそっぽむいて拗ねて。

そう思ってるのに。悔しいのに。
こんな時に限って美羽の口から言葉は一つも出てこない。ポロポロ泣きながら頷くだけ。
丈が見せたとびきり嬉しそうな笑顔をさえぎる涙が邪魔で、でも止められない。いつしか抱き寄せられ抱きしめられる。


美羽はひとしきり泣きじゃくった。子どもをあやすように慰め余裕綽々に見えた丈だが、思いがけず上首尾に終わったプロポーズに実はへたり込むほど安堵していた。

二度とやるもんじゃないな。やる気もないが。



年が明けて後。少しは苦労しなさいという神様の配慮か美羽への同情か。二人で訪れた美羽の実家で、いきなり現れた娘の恋人に父親が見事な拒絶反応をおこし、散々手こずらされる羽目になろうとは神ならぬ身では知る由もなかった。





ともかくも今は二人だけ。この気持ちは確かに真実。
丈が一ヶ月も持ち歩いていたアクアマリンは、これから美羽の手に末永く輝き続ける。

きっときっと。





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