夕暮れの空に遠く摩天楼が影絵のようだ。
見るたびにここが日本じゃないことをのばらに思い出させる。

勤め先から地下鉄で二駅のここは、のばらが仕事帰りによく立ち寄るショッピングストリートだ。ニューヨークで働き始めた頃はひったくりやその他諸々への注意をさんざん聞かされたっけ。十年経てば立派にニューヨーカー。警戒もすっかり薄れていたのに。

災難は忘れた頃にやってくる。
もっとも、備えあれば憂いなしともいう。

突然バッグをつかまれたが、のばらは悲鳴もあげなかった。奪い取ろうとする少年の腕をつかみ、くるりと地面に返し倒して肘で押さえ込む。亡き祖父直伝の護身術だ。全てに万能とはいかないが、少年相手なら問題ない。

「大和撫子をなめないでちょうだい」

遠巻きにしていた仲間らしい一団は蜘蛛の子を散らすようにわあっといなくなった。残された少年は目を白黒させながらのばらの下で身動きとれない。通行人がひゅうっと口笛を吹き、拍手が沸いた。

「ナイス、ジュードー！」
「ワンダフル！」

柔道じゃないのよと、説明してもわかるまい。歓声には会釈のみで、のばらは少年とにらみあった。圧倒的不利な状況にも関わらず、見上げてくる目は反抗的だが、綺麗だった。颯より年上。十二、三だろうか。

「さっきのは仲間？　ずいぶん薄情ね」
「仲間なんかいるもんか。群れてた方が仕事がしやすいだけだ」

突っ張っていても目に不安がちらついている。
だがいきがる。

「さっさとおまわりに突き出せよちくしょう」

今年で十歳になったまだまだ素直な颯も、いずれはこんな顔を見せるようになるのだろう。すみれがあわてるわね。アラシはきっと平気の平左、逆に喜んだりして。

目の中に入れても痛くない甥っ子を思いだしたせいもある。立ち上がったのばらは彼も引っ張り起こした。二の腕はつかんだままだ。急に解放されて彼はきょときょとしている。

「私はのばら」
「ノヴァ……？」
英語に混じった日本名に少年は戸惑った顔になる。

「の、ば、ら。あなたは？」
相変わらず反抗的な顔で彼は答えない。もう一度聞くとようやく。

「ギイ」
「じゃあギイ。あなたは私のバッグを盗もうとしたわ」
「失敗した」
「悪いことよ」
「食べられずに死ぬよりましだ」
その言葉が彼の背景を物語っている。

「でも悪いことよ。きちんと謝って。そしたら水に流すわ」

ギイはにらみかえすだけで何も言わない。のばらはわざとらしく彼の後ろに向かって手を振ってみせた。
「おっまわりさーっ……むぐ」
「畜生、わかったよ。悪かった。これでいいだろ」

のばらの口をふさいでギイが悔しそうに言う。眉を上げたのばらは彼の手を払いのけ、腰に手を当てると真正面からのぞきこんだ。
「きちんとよ」
不承不承と書かれた顔で、それでもギイはのばらをまっすぐ見た。

「悪かった」

今の彼にはそれ以上は望めまい。そう判断したのばらはにっこり笑う。男なら誰でもドキリとする笑みは、少年相手でも強力だ。ギイが焦ったように目を逸らした。

「のどが渇いたわ。そこらのスタンドでコーラ、買ってきてくれる？　それでチャラにしましょう」

のばらは二ドル渡した。目を丸くした少年が上目遣いにのばらを見る。賭けだった。負けるだろうと思った。でもやってみる価値はある。

案の定、脱兎のごとく逃げ去ったギイは十分待っても二十分待っても戻って来なかった。とっぷりと日の暮れた街角で一時間。負けを認めたのばらだが、失望はしても落ち込んではいない。

あの子にはまた会える気がする。
後ろでアクセサリーの露天を始めたヒッピーに、のばらは話しかけた。

「ねえ、頼みがあるんだけど」



さらに三十分後。
夜の人波が行き交う路上になぜかギイは現れた。手にはコーラ。伺うように周囲を見回し、安堵したようながっかりしたような微妙な顔つきでうつむく。

「よう、坊主」

いきなり話しかけられてふりむくと、露天を広げたドレッドヘアのヒッピーが手招きしている。警戒しながら近寄ると彼は言った。

「ギイってのはあんたか」
「……なんで」
「美人に頼まれた。あんたが来たら伝えてくれって」
「ノバラに？」
「さあ。名前はしらねえが。迷子になったみたいだから、コーラはまたここで、だとさ。伝えたぞ」

信じられないという風にギイの目が大きくなり、膝を抱えてその場にしゃがみこんだ。持っているコーラを見てドレッドヘアが尋ねる。

「なんだ、ほんとに迷子か」
「んなわけねえだろ。ここらは俺の縄張りだ」
「ならなんだよ」
「美人のバッグをかっぱらい損ねたんだ」
ストリートにそんな手合いは珍しくないから、ドレッドヘアも驚かない。

「仕方ないから謝ったら、二ドル渡してコーラ買ってこいって。戻ってくると思う方がどうかしてるだろ」
鼻の上に飾りのような丸メガネを乗せたドレッドヘアは、並べた商品をチェックしながらふうんと聞き流す。

「なあ、あんたがノバラに頼まれたのっていつ頃」
「三十分くらい前かな」
「……一時間も待ってたのかよ。いかれてんじゃねえのあの女」
「いい女だったぞ。いかれてる風にも見えなかったし」

「怒ってたろ」
「いや。笑顔だった」
「……馬鹿だろ」
「そういうおまえこそなんで戻ってきたんだ、わざわざ」

ぐっと詰まったようにギイは黙った。あけてもいないコーラを持て余すように見る。
「わかんねえよ」

つぶやいてから、思い出したようにギイはドレッドヘアに確かめた。
「またここでって言ったんだな」
「あぁ？　うん。間違いなく」
「ふ、ん。そっか」
ひとりごちたギイはコーラをドレッドヘアに差し出した。

「これ、やるよ」
「いいのか」
「伝言の礼」
「ならありがたく」
あっさり受け取ったドレッドヘアは、のどが渇いていたのかすぐそれを飲み干した。

「うめえ」
「そりゃよかった」
「俺はマーチンてんだ。ここらは初めてだが、しばらくいるかも」
「そうか。じゃあなマーチン」

そう言うとギイは街灯も届かない闇へと消えていった。





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