こんなに甘やかされるのは初めてだわ。
　産休に入ってからというもの、葵は毎日そう思っていた。

　光は最初から優しい夫だが、葵の妊娠を知る前と後では、比べものにならないほど過保護になった。
　妊婦は病人じゃないと口を酸っぱくして主張しても、まったく態度を改めるつもりはないようだ。家にいる時は、葵の一挙手一投足から目を離さず、背伸びしても屈んでも立ち上がっても、すっとんでくる。

　「そんなん俺がやる」
　「大丈夫だってば」
　「あかんたらあかん」

　そのうち、代わりに息をすると言い出すのかもしれない。しょうがないのだろうかと自分の体を見下ろす。大きくなったお腹はそろそろピークで、足の爪も切れない。

　代わりに切ってもらっちゃったけど。
　思い出して、葵は頬を赤らめた。

　足の爪を切ってもらうというのは存外セクシャルな行為だった。臨月に入って夫婦生活も慎んでいるせいか、妙にむらむらした気分になった。光も同じように感じていたのは断言できる。あの時はキスが、とても……うん？


　シクシク、キュッ


　「デザートにしようか？　葵さん」

　やわらかな低い声をかけられ、葵は我に返った。カウンターの向こうから義兄の雀すずめ　が微笑んでいる。平日のランチタイムを過ぎて、店内は客もまばらだった。昼食の途中で、考えにふけってしまったようだ。

　雀は光の姉の夫で、義母の小町が経営するティールーム＜ワールズエンド＞のコックをしている。かしこまったところのない、どこにでもある洋食ばかりだが、それでいてまた食べに来たくなる、どこにもない味だ。

　光の姉の藤尾は去年の春、勤めていた会計事務所を辞めると、雀と共に実家の洋館へ戻った。小町の店を手伝うためだ。すぐ後に光と結婚した葵は、銀と結婚した初音と入れ替わるようにして、一緒に暮らし始めた。

　一年後の先月、乙女が鉄と結婚して、五人になったわけだが。


　＜ワールズエンド＞は紅茶の専門店だ。義母、小町の入れる絶品の紅茶と、小町が仕入れてくる粒よりのケーキが売りだが、周囲にあまり店がないこともあって、軽食を希望する客が多かった。普通なら店主に期待するところだ。大家族の主婦と聞けばなおさら。

　しかし小町は『普通』ではなかった。葵はまだ食べたことがないのだが、小町に料理を作らせるのはとにかく危険らしい。
　何がって、命の危険。
　冗談でも言い過ぎでもない、源家の面々は母親を＜食卓のテロリスト＞とか＜バイオテロの達人＞とか呼ぶのだから。

　小学生の光は、小町について作文に「お父さんだけねらうスナイパーみたい」と書いたという。夫だけに作っていたわけではない。夫の融とおる　しか小町の料理を食べようとしなかった、というのが真相らしい。

　危険とわかっていても食べて、トイレに駆け込む。
　それも愛かしら……あ、また。


　チクチクシクシク


　とにかくそういうわけで、コックを捜していた小町が、道ばたで拾ってきたのが雀だという。その詳細はまだ聞いたことがないが、小町の絶品の紅茶に勝るとも劣らず、雀の料理もファンが多い。

　今日のランチメニューは三種。パスタはカルボナーラ、丼ものはキーマカレー、サンドイッチはスパムとキュウリと卵の盛り合わせだ。葵はキーマカレーを堪能した。挽き肉に利かせた唐辛子のピリカラとナスの甘み、トマトの酸味が絶妙の味だった。

　とっくに空になっていたお皿が雀の手で引き取られる。
　「おいしかったわ、雀さん。今度私も試してみる」
　「光くんはもっと辛い方が好みだよ、きっと」
　「彼ったらどれだけ食べても太らないんだもの。女の敵よね」

　ちょっとすねた口調になった。妊娠はうれしいし、大きくなったお腹を誇らしくも思っているが、葵も女性だ。体型が戻るのかどうか心配もある。

　「光ってとにかく代謝がいいの。嫌になっちゃう」
　「葵さんの体型はちゃんと戻るよ。そこには赤ん坊がいるんだし」
　「わかってます。文句言っちゃだめよね。うわぁ、きれい」

　運ばれてきたデザートは色を重ねたムースだった。ヨーグルトソースが引き立たせる。一口食べてため息が出た。

　「美味しい。のどを絹が滑り落ちるみたい。贅沢ね」
　「そこに紅茶を足せば、贅沢の極みよ」
　小町が集めたカップコレクションの一つが、芳醇な香りをたてながらムースの横に置かれる。置いたのは藤尾だ。

　勤めをやめて店に本腰を入れた藤尾は、紅茶についても本格的に小町から学んでいる。その上達たるや、今日みたいに小町が留守の日は、代わって入れられるほどの腕前だ……うわ。


　グリグリグリ


　「あ、りがとう藤尾さん。いい香りだわ」
　「ニルギリよ。やっぱり茶葉はケチケチしちゃだめね」
　笑いながら隣に腰を下ろす。

　源家はハンサムレディーばかりだが、藤尾もそのひとりだ。初めてこの家に泊まった時を思い出す。あの時は無造作に上げた長めの髪が、ほうきみたいに見えたっけ。

　今の藤尾は、うなじから裾へ斜めのボブカットだ。スレンダーでシャープな藤尾の雰囲気とよく似合っていた。前髪ごと太めのヘアバンドで上げている。今日のは辛子色でカーキのシャツに効いている。

　葵は藤尾が好きだった。光の家族はそれぞれ気に入っているが、藤尾とは同居するまであまり会う機会がなかった。それを残念に思うくらい、この一年で仲良くなり、産休で家にいるようになって、さらに親密さは深まった。

　さっぱりして前向きで、グチを言わない。夫を愛し、家族を大事にしている藤尾。加えて彼女には深みがあった。考え深さとか思いやりとか、人を傷つけまいという深謀遠慮が、薄紫の影のように細やかだ。雀にも、同じものを感じる……あぁまずい。


　ギギギギギ


　眉をしかめた葵に気づかず、客が帰ったテーブルを片付けながら、藤尾は話し続けている。
　「……でね、小町さんと意見を闘わせちゃった。大先輩におそれ多い気もしたけど、店は趣味じゃなくて商売なんだから、バランスをとらなきゃ。とびきり美味しいけど高すぎるものを仕入れるか、かなり美味しくて少し高いものを選ぶか、並の美味しさで利益率の高いものにするか」

　「こ、まちさん、は、なん、て？」
　「だって美味しいのよ、ってそれだけ。そりゃ私だって美味しいものを出したいけど、店がつぶれたら本末転倒だし。茶葉が入れ方次第っていうなら、努力で味も引き上げられるはずだし」
　「そ、です、ね」
　「でしょう？」

　「葵さん、どうかした？」

　言葉を挟むタイミングがみつからず、なんとか痛みを逃していた葵に、雀が気づいてくれた。食器を片づけていた藤尾があわてて近寄る。

　「葵さん」
　「すみ、ませ……、もしか、して？」

　予定日まで十日。妊娠経過は全く問題なく、いつ産まれてもおかしくないとは言われていたが、いつになるかは神様にしかわからないことで。
　今日なのかしら。

　これまでネットや本やＤＶＤで、知識だけは山ほど取り入れた。想像して恐れたり怯えたりしていたのに。

　いざ痛みがきたら妙に度胸の据わった自分がいた。
　下りられない波なら素直に乗るだけ。なるようにしかならないわ。

　あわてたのは藤尾と雀の方だった。藤尾が留守の小町を罵っている。
　「このタイミングでいないなんて、もう！　あんなに今度こそって叫んでたくせに」

　二月の初音の出産を逃した(？)小町は、葵の時こそと意気込んでずっと張り付いていたのだが、今日はどうしてもはずせない用事で、朝から出かけていた。いないものはしょうがない。

　「とり、あえず病、院に電話、してもらえ、ますか？　初産は時、間、かかるってい、うし、家に戻って、荷物をとって、車、お願いし、ます」

　葵が落ち着いているせいか、藤尾と雀も冷静さを取り戻した。

　「病院へは僕が電話する。店も閉めないと。藤尾は葵さんを車に。荷物も取ってきて。葵さん、歩ける？」
　「たぶ、ん」
　「すぐ来てよ雀。逃げたら承知しないから」
　「逃げたら光くんに殺されるって」
　「光にも連絡する？」
　藤尾に聞かれたが、首を振った。

　「あと、で」
　「そうね。今立てる？　歩ける？」
　「ちょ、っと待、って」

　寄せ来る痛みに耐えながら、葵は考えた。光は今日、大事なプレゼンがあるとか言ってたような。連絡は病院で診察してもらってからでいいかしら。怒るだろうけど、時間がかかるんだろうし、たぶん。

　お父さんが来るまで頑張ろうね。
　他にも、たくさんの家族があなたを待ってるのよ。
　お母さんも頑張るから。

　お腹の子どもに語りかける葵の中には、期待と、覚悟があった。





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