初めて見る顔だった。中年の太った女性、などと紋切り型の言い回しを使うには個性があふれすぎている。

はちきれんばかりのボディを包んでいるツイードのシャネルスーツ。手に持っているバッグもシャネルだ。肩にふわりと羽織った一枚仕立てのコートから足元のパンプスまで、全身高級ブランドなのに負けない存在感がある。

尊大な目は切れ長で吊り上がり気味。添うように描かれた眉は細い。小鼻は少々お団子だが、大きく豊かな唇が受け止める。顔立ちもメイクも悪くないのに、髪はどうしたのだろう。

肩よりも長い髪は流しているともいえるが、あまりにも無造作、若者が好きなナチュラル系？　だとしたら失敗してる。シャネルスーツには不似合いすぎた。


ストレスの捌け口を求めてヒデミの指がうずうずした。イメージが凄い勢いで脳内に幾つも湧き、飛び交い、飛び込んでくる。女性の敵意に満ちたまなざしも、カットプランで頭がいっぱいのヒデミは見えてない。そのヒデミを指さして彼女が振り返る。

「これが男だっていうの。どう見たって」
「調査済みです」
「間違いない」

答えたのは後ろに従えてきた男ふたりだった。スーツとミリタリー。この目で見なければ信じない組み合わせだ。服装で判断すれば秘書とボディガードか。真逆の格好なのに眼鏡とサングラスのせいで双子にも見える。

「女装のゲイ？　最悪ね」
「最高にもみえる」
「目の保養ですね」

シンクロする口調にヒデミを射るまなざしが嫌悪感を帯びるが、自信たっぷりな表情はさらにヒデミをそそった。うーん、いい。


「ヒデミさんって仰るのはあなたね。私はツルマキ。突然でもうしわけないけれど、颯。竹園颯とは今日限り縁を切って頂きます」

結構長い髪だわ。手入れは良さそう。切ると怒られるかしら。なら半分上げるとか。

「ご存じないでしょうけど、彼がたちあげたバンブーガーデンは絶好調、株式上場も目前。なのに取締役が女装のゲイにぞっこん、なんて世間に知れたらスキャンダルもいいところ」
「ぞっこんとは」
「レトロな言葉」
「お黙り」

きつく睨まれて口を閉じるふたりだが、どちらも主の不機嫌を蚊に刺されたくらいにしか感じてない様子。もっともヒデミには関係ない。依然として髪だけに集中している意識。どうしよう。上げる？　切る？

「世間を甘く見ないで欲しいわ。事業はなんでもそうだけど、ウエディング業界は特に信用第一、噂一つで翌月消えたりするのよ」
「同感だ」
「魔法だな」

毛先をねじって頭頂に集めたらどうかしら。派手に盛ってしまう？　いやいやスーツなんだから、もう少し洗練された感じがいい。たとえば。

「遊びならいいのよ。ゲイでもバイでもみんな見ないふりしてくれるわ。なのに颯ときたら、遊び相手を全部斬ってあなたに決めたですって？　頭のねじが飛んだのかしら。働き過ぎね」
「遊びすぎって可能性もある」
「根は真面目ですから」

やっぱりカットしなきゃ。
前と横。毛先は最小限。それから。

「とにかく颯と切れて。お金ならあげるから」
差し出された小切手も言葉も見ざる聞かざる。

「三千万。手切れ金としちゃ破格でしょう。受け取って」
限界だ。

「我慢できない」
「……は？」

ぼそっと呟いたヒデミに３人が３人とも訝しげな顔をするが、ヒデミは行動を起こした。つかつかと女性に歩み寄り、小切手には目も暮れず二の腕をつかむ。

「ちょっと、何を」
「いいからこっち」
「おい」
「きみ」

男ふたりがあわてるのも無視して強引に鏡前の椅子に座らせた。クロスをつかんでふわっとかける。男たちはもちろん女性も眼を白黒させて唖然と鏡で見た。彼女の後ろに嬉々として、見ようによっては危険なくらい意欲に満ちて、ハサミを手に立っているヒデミを。


「動かないで。ねえ、この髪。一体どうしたっていうの」
ぶしつけな言葉なのに、女性は貫禄に似合わぬ子供っぽさで口をへの字に曲げた。

「……いきつけのサロンで新人にやられたのよ。たまに気分転換で試すんだけど、はずれもいいところ、散々怒鳴りつけてやったわ。でも時間がなくて嫌になっちゃう。だから、美容師に絶対寛大になれない日なのよ、今日は」

「当然ね。こんなことしたらクビよ」
「あら」
しゃべりながら手際よくブラシを入れる。思った通り手入れの行き届いた髪だ。

「客の魅力を台無しにするなんて、免許剥奪したら」
「魅力？」
そんな単語がヒデミから出るとは思ってなかったのか、女性は女性というわけで微妙に声に混じる喜色。

「ええ。あなたにとっちゃ厄日でもあたしは今日逢えて嬉しいわ。誰かの髪を切りたくてうずうずしてたの。あなたは相手としちゃ最上。存在感あるし自分を知ってる。でしょ？」
「まあ、ねえ」

眼をぱちくりさせてヒデミの真意を測ろうとするが、ヒデミは髪と手先に全神経を注いでいる。両手で彼女の頭をしっかりつかみ、淡々と告げた。

「せっかくパラダイスなボディなんだから、スーツだって髪はもっと華やかにすべきよ」
「華やか？」
「少し切っていい？　長さは変えないから。右から４分の３すくい上げてねじってまとめる。ボリュームを作ってあとは流す。スーツだから、締めるところは締めなきゃね。でもポイントが欲しい。色を入れちゃだめ？　スーツがワインで髪が栗色……金ね。ゴールド」

「ゴールド？　髪を金色に染めるって言うの？　気は確か？」
「差し色よ。一房だけ。最高に似合うわ。どう？」

真面目に提案するヒデミの眼とかちあって、吸い込まれるように彼女はうなずいた。うしろから二つの声が追いかける。
「いいんですかほんとに」
「のばら？」

鏡の中からチラッとふたりに視線を流した女性は、もう一度今度はしっかりヒデミを見据える。
「やって。その代わり気に入らなかったら。ここ、潰すわよ」
「わかった」

ためらいのない承諾に３人がどんな顔をしたのかヒデミは見もせず、あとは作業に没頭していった。ハサミと櫛。あとは脳内に描いた絵をいかにして彼女の髪に再現するか。それだけだ。時間の感覚を見失った。



こういうときは自分の正気を疑ってみるべきかも知れない。潰すってあれは間違いなく本気だ。きっと簡単に潰される。わかってるのに迷いはない。あるわけない。客の髪を切るのはいつだって挑戦だから。うまくいく保証なんてない。頼るのは自分だけ。恋と同じ。

そう、恋だってそうだ。

何を迷って怖がってたんだろう。答えはとうに出ていたのに。
あたしは、彼を。



ふっと現実が戻ってきた。気づくとハサミをおきメイクを直している。眉を少しやわらかく唇にグロス、ほお紅は高く。金色の一房を効果的に。
「よし」
うなずいてバサッとクロスをとりはらい女性に手を差し出した。
「立って」

おりたった彼女を待ちくたびれていた秘書とボディーガードに向き合わせる。ふたりが唸った。
「こりゃすごい」
「のばら、すげぇぜ」

鏡を見返った彼女は自らを見た。ワイン色のシャネルスーツにかかる栗色の髪は、右半分を巻き上げるようにトップへねじり上げ、パールの大きなバレッタで止めてある。左の前髪がひとふさ、金色のベールのように流れ落ちている。スーツの背中におちた髪はアシメトリーで遊ぶようだ。それでいてスーツのかっちりした味を乱さない。

「……大したものね」
「思い出した。ヒデミってあんた、カリスマシザーズの優勝者だろ」
「去年、二度目の優勝を果たしたっていう？」
「ええ？」
ミリタリー・ボディーガードが頓狂な声で聞く。秘書が思い出したように付け加えると女性の声が重なる。

「ほんとにあなたが？」
「まあ、はい。　で、あたしのヘアメイクどうかしら」
ヒデミが今聞きたいのは、彼女が気に入ってくれたかどうかだけだ。緊張で首筋がガチガチになっている。

「どうって……これで不満なんて言えるもんですか」
不承不承、困った顔で女性がこぼす。どうやら賛辞らしいとわかってすーっと肩から力が抜けた。安堵してしゃがみこみそうになるのを堪えてうつむく。
「良かったぁ……あれ」
彼女の膝から落ちたらしい紙切れを拾った。小切手？

「これ、あなたのでしょ」
「……私の話まーったく聞いてなかったわね？」
さっきも言われたなぁと思いながら決まり悪げに頭をかく。
「ごめん。あなたを見たとたん、髪をどういじろうかってそれしか考えてなかった。あとはさっぱり」
３人の顔を見交わす。呆れるを通り越して苦笑いになっている。

「ごめんなさいってば。で、なんだっけ」
「だから……あぁもう」
「のばら、惨敗？」
「社長、諦めたら」
クスクス笑い出すミリタリー。秘書が呼んだ呼称がひっかかった。
「社長、って。あなたが？」

ヒデミが眼を丸くしたそこに飛び込んできたのはささら。
「こんにちはーって、あれれ」
それから。
「ヒデミ！　……え、え？」

ほぼふた月ぶりの颯の姿に、ヒデミの鼓動が一気に連打になった。乱れうちだ。彼しか見えない。だが颯もささらも、ヒデミ以外の顔ぶれに驚いている。

「颯。あなた、まだあっちじゃ」
「社長こそどうしてここに」

「のばら、やばいねぇ。ささら、久しぶりじゃん」
「ツタさん。荻さんも」
「ささらちゃん、綺麗になりましたね」

知り合いらしいのはわかるけれど何がどうなってるのか。いや、どうでもよかった。目一杯の緊張と弛緩の後だ。ヒデミにはこの二ヶ月足りなかった睡魔が津波のように押し寄せつつあった。眠い。でも、眠る前にどうしても。

わいわいやっている彼らの中、ただひとりをめざして他は押しのける。名前を呼ぶ。

「颯」

彼がヒデミを見た。その顔は驚きに満ちている。
「ヒデミ？　今、なんて」
「颯」

確かに初めて名前を呼んだ。でもそれより。まっすぐにたどり着いた彼の腕に身を投げる。

「ヒデミ？　ちょ、どうした」
「颯、好き」
「……は？」
「聞こえた？」

見上げた彼の眼は半信半疑と驚天動地。珍しく狼狽えて見えるのが、ちょっと可笑しい。でも信じてもらわないと困る。

「好きよ。返事、待たせてごめん」
「……ほんと、に？」
「あなたの、パートナーに、なりたい」

首筋から這い上がるようにして彼の顔が染まる。同時に喜びも染め上げていく。ああよかった。通じたらしい。

「ヒデミ」
「その前に、ちょっと」
「ちょっと？」
「眠い。眠ら……せて…」

すうっと、高く立ち上がった波にのまれるみたいに睡魔に負けた。途切れる意識。彼の腕に安心して身をゆだねる。颯の慌てた声が耳元でわめいても、安らかなるＢＧＭにしか聞こえなかった。





目覚めたヒデミは颯のマンションにいる自分に驚いた。
丸一昼夜、夢も見ずに眠りこけていたらしい。


呼べど叫べど揺すれど叩けど一向に起きないヒデミに颯は救急車を呼ぼうと主張したが、幸いミリタリーと秘書がタッグで「寝てるだけだ」と断言してくれてなんとかそこまでの騒ぎには至らなかったようだ。

ふたりはヒデミの部屋を知らない。かといって店に放っておくわけにもいかずその気もなく、颯とささらでマンションに担ぎ込み見守っていたという。

わっと押し寄せた記憶は眠る前の大騒動。この年にしての大告白。
恥ずかしさと期待の半々で彼を見上げたら。

「どうしてすぐ知らせてくれなかった？　睡眠不足で倒れる寸前まで」
「えっと」
「毎日メールしてただろう。言ってくれればすぐに」

心配と憤慨で説教に走る颯の気持ちはわからないでもないが、眠り姫よろしく目覚めたら甘いキスとか抱擁とかを期待したかったのに。自分のせいとはいえ不満でヒデミはふくれ面だ。後ろからささらが、仲裁に入ってくれる。

「お兄ちゃんてばもういいでしょう。ヒデミさんがこんな眼にあったのはそもそも、お兄ちゃんの不徳の結果じゃないの」

痛いところを突かれた颯はヒデミの表情にあわてたようだ。
「わかったよ。悪かった」
「そうじゃなくて」
思わずヒデミは遮った。

「間違ってたら言って欲しいんだけど。あたし、あなたに告らなかった？」
颯の顔が魔法のように解けて溶ける。

「間違ってない」
「好きよって」
「言ってくれた」
満足げな颯の表情と不満足げなヒデミの表情を、ささらが危なげに見比べる。

「ならどうしてあなたはあたしに文句を言ってるわけ？　他にないの？　感想とか？」

今度こそまずいと思案した颯は潔さに勝るものはないと結論づけたらしい。

「あるよ」
「言ってみて」
じろっと睨んだヒデミの両手をにぎった颯は身を乗り出し口づけた。後ろからのささらの抗議におかまいなしの、深くて甘いキス。

「お兄ちゃんっ！　妹の面前でやめてよ。離れてっ」
ささらが割り込もうとするが、ぽいと腕をはがされた。そりゃあどっちも男だ。それなりに力はある。

「あっち向いてろ」
「えーっ」
「ごめんささら、ちょっとだけ」
「ヒデミさんまでえええ」

わめきちらしてもやめる気のないふたりに、ささらはしぶしぶ背を向けた。譲ったのはそこまでで断固として部屋から出なかったのでとりあえずキスだけで治まった。ささらにもヒデミに話したいことが山ほどあったのだ。

たとえば。


恰幅と迫力のあるあの女性は、弦巻つるまき　のばらという乙女チックな名前で、オーロラウエディングの現社長であるとか。

ミリタリーなボディガードはツタという名の日系三世で、従軍経験もある本物のボディガードだとか。

荻おぎ　と呼ばれたスーツの男性は紛れもない社長秘書で、弦巻社長本人の息子でもあるとか。

のばらは颯とささらの伯母に当たる人で、幼い頃から世話になっているけれど、伯母さんなどと呼ぼうものなら鉄拳が降ってくるので要注意だとか。


寝起きでなくともすぐには理解できないような話を、怒濤のごとくしゃべりまくるささらにヒデミは閉口したが、颯が手を握って申し訳なさそうな、その実ひどく熱っぽいまなざしでみつめてくるのに気を取られて半分は聞き流した。たぶん、大事な部分も。


「……でね、のばらさんたらヒデミさんを排除、まったくゴミか細菌か天災みたいな言い草なんだから、とにかく排除するつもりで来たらしいんだけど、ヒデミさんのカットとセンスに惚れ込んじゃったんですって。是非、オーロラで企画する挙式にも出張でも良いから仕事を頼みたいって言ってたわ。ねえ凄くない？　オーロラってギャラ最高よ。ネームバリューだってとれるしきっと……聞いてる？　ヒデミさんったら！　ああもうお兄ちゃん、手を離しなさいってばーっっっ！」


颯の腕と耳元でぎゃんぎゃんわめくささらの声に包まれて、ヒデミはこの上なく幸せな気分に浸っていた。こんな素敵な恋が自分に巡ってくるなんて、人生は驚きに満ちている。


ねえショーコ。
早く、戻ってらっしゃいって。



窓の向こう、高層マンションをとりまくのは高くて青い秋の空。
本日も晴天なり。





　　　　　　　　　　　　　＜　”It is fine weather today.”　/　end　＞