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本編後・番外編


「本日も晴天なり」
前編



店のガラス窓を磨いていたヒデミは、バケツのひんやりした水に手を引っ込め、高く晴れた空を見上げた。

「涼しくなっちゃったわねえ。ショーコったらいつ帰ってくるのかしら」

ショーコを待っているようで実は、別の誰かを待っているなんて意地でも認めたくない。不満ともグチともつかぬいろいろがヒデミの心を乱している。眠りの浅い日が続いていた。





ショーコが不在のまま季節は変わった。足早な今年の秋。ヒデミの日常は相変わらずだ。去年のようなシザーズラッシュはない代わり、コンスタントに予約は埋まっている。一人で切り回しているから無理はしない。遊ぶ時間もそれなりに作っていた。これまではキングかエヴァとが多かったのだが、去年から微妙に比率が変わった。この一年、気づいてみるとデート相手の筆頭は竹園 颯だ。


夏のはじめは海へ行った。泳ぐわけではないが、潮の香りが嗅ぎたいといったら颯が車で連れ出してくれたのだ。かつてヒデミも車を持っていたけれど、借金やらトラブルやらで売り払って以降はもっぱらレンタカーですませている。維持費もバカにならないから。もちろん颯がレンタカーのわけはない。国産車なのは意外だったが、小回りが利く方が便利だからと堅実な答えだった。

「波に乗るのって楽しいのかしらね」

陽がかたむいて肌寒くなってきたというのに、波間には数え切れないほどのサーファーが浮いていた。落ちては乗り、打ち上げられては乗る。楽しいと言うよりは苦行に徹する修行僧のようにも見える。

「楽しいさ。ヒデミは乗ったことないのか」
「冗談じゃない。肌が傷んじゃう」
「日焼け止め塗ればいいだけだろ」

会話のための会話。颯は時々そんな感じだ。話題はなんでもいい。ヒデミとしゃべること自体が娯楽みたいな顔をする。嬉しいような照れくさいような。

「あのね。美容師が腕や指先怪我したら仕事にならないんだから」
そっぽ向きながら嫌みったらしくぶつぶつ言う。

「スキーだってスノボだって十代の頃はうまかったわよ。やればそれなりだけど、やらない」
口にするとすごく負け惜しみっぽい気がする。急に黙った相手を振り返ると目を見張ってヒデミをみている。

「な、なに」
「驚いた。そういう理由が出てくるとは思わなかった」
「笑いたきゃ笑えば?」
「どうして。尊敬するよ俺は」
「は?」

巻き付いてくる腕から逃げるのも忘れてぽかんとした。真面目な彼の眼に狼狽える。

「そっ、こまで言われるほどのことじゃないわよ、大げさな」
「そういうとこも似てるよ」
耳元でささやかれてクラっときたが、言われた言葉の方が気になる。

「誰に?」
「尊敬する人に」
「上司? なわけないわね、代表取締役なんだから」
「僕だって生まれたときから取締役だったわけじゃない」

ネクタイしめた子供の顔を想像して、ヒデミは吹き出しそうになった。怒ったふりして柔らかく颯の拳が頭に当てられる。

「ろくでもないこと考えてるだろ」
「考えてないって。それより、あたしに似てる上司がいたわけ?」
わずかにためらった颯は質問に質問で返してきた。

「オーロラウエディングって知ってるだろう」
「あたりまえ。ブライダルハウスの老舗じゃないの」
「昔勤めてたんだそこに。一から学んだ」
「ほんと?」
意外だった。平社員の颯など想像できない。

「すごく世話になった。今もだ」
「へえ」
「社長が凄い人でさ。発想も実力も自負も」

「ふうん?」
「僕がこの業界で一番尊敬する人。その人に、似てる」
「なんて光栄」
眼を回すヒデミをさらに引き寄せようとする。

「離して」
「いやだね」
「ちょっと」

文句は言うが力づくで逃れるまではしなかった。彼に抱きしめられるのは嫌いじゃない。正直に言えば好きだ。同じ男なのに肩幅が違うのか骨格に差があるのか、楽々とヒデミを腕の中に納めてしまう。慣れてはいけない。慣れないようにと自分を戒めねばならなかった。



出会ったその日に告白するという、ドラマ顔負けの華々しさで登場した男との関係はつかず離れずのろのろと、前か後ろかと聞かれれば前に進んでいるのだろうか。企業トップでヒデミよりも忙しいはずなのに、週に二、三度は顔を見せるしメールは毎日というまめさだ。これまで男運が良くなかったヒデミにすれば百店満点をつけてもいいはずだが、生憎よねえとヒデミはまたひとりごちる。

「完全無欠の男なんていないのよね」
「Lemonて美容室はここかい」

独り言に重なった男の声にぞわっと悪寒を感じながらも、とっさに営業スマイルを作ってヒデミはふりむく。まだツトムも来ない時間だ。

「いらっしゃいませ」
「ヒデミさん、てのは」
「あたし」

スーツにロン毛。崩した雰囲気はサラリーマン、というよりは夜の仕事だろう。ホストかしらと見定めたヒデミに男はいきなり言った。
「なあ、どうやって颯を落としたわけ? やっぱ色仕掛けだよな」

あまりにも予想内のせりふだ。またか。営業スマイルに険を加えつつ、ヒデミは心中でがっくり肩を落とした。





最初は7月半ば、颯が海外へ長期出張したとたんだった。

Lemonには男女を問わずいろいろな客が訪れるが、目的は当然ヘアメイクで自分をいかに美しくしてくれるかだ。なのにその客は鏡を前にして自分の顔よりヒデミの顔を凝視していた。視線に悪意を感じる。出会って二時間ちょっと、思い返しても初めての客に嫌われるような粗相はしていないはず。なんだろうと訝るヒデミに女性はとうとう言った。

「竹園さんとつきあってるんですって? 確かに美人だけどずいぶん毛色が違うわ」
ふつうのOLに見えるのに犬猫を値踏みするようなせりふだった。呆気にとられているとさらに言い放たれた。

「遊びに決まってるのに。たくさんいるけど本命はいないの。すぐ終わるのよ。わかってるのかしら?」
注文のカットがほぼ終わっていてよかった。ハサミをもった美容師に喧嘩を売るのは賢いことじゃない。相手もタイミングを見計らっていたのだろう。

顔面筋力(というのがあるのかどうかは知らないが)を総動員して営業スマイルを保ったヒデミは、はさみを置くとにっこり言い返した。
「あなたは終わった相手ってことね」

顔を真っ赤にした女性は蹴るように椅子をたつと、ツトムが怯えているレジ台に一万円札をたたきつけて出ていった。
「ど、どうしたんっすか」
「さあ」

釣りは迷惑料と取ったヒデミだったが、それは始まりでしかなかった。その後も次から次へと現れる男女。時に忠告めいたり脅迫めいたり。でも言うことは概ね同じ。
『彼には似合わない』
『捨てられる前に別れたら』

男も女も色とりどりだ。あまりの数の多さに結託して嫌がらせしてるのかとも思ったが、たまに鉢合わした同士は敵意を向けあっているから単独行動らしい。それぞれ別個でこれだけの人間が同じ行動をとるとは。颯がどれだけ美味しい相手なのかと同時に、言い方は悪いが颯がどれだけ食い散らかしていたかを示していた。

出会うまでの颯の節操なさに呆れはしたが、愛想は尽かさなかった。ゲイとかバイとかの性癖を受け入れることの難しさはヒデミもいやというほど知っている。欲しいのは男でも女でもなくてパートナーなのだと悟るまでは、いくつになってもあがきを繰り返すものだ。それにしてもこんなに集中攻撃をくらうなんてと首を傾げる。

ツトムはともかくヒデミは修羅場をくぐってきた身だ。ちょっとやそっとじゃめげもびびりもしないが、毎日違う顔ぶれで同じことを繰り返しされると疲れてくるし眠りも浅くなる。ルーチンワークのようにやってくる輩もいてツトムが心配そうだ。ショーコはおらずキングも忙しそう。エヴァだけは聞いてくれるが、さっさと颯に言わないからだと手厳しく怒られる。


今夜もだった。カウンターにはヒデミとエヴァだけ。ブーケにしては静かな夜だ。アダムがシェイカーを振る音がリズミカルに響く。

「出張先からも毎日メールきてるんでしょうぉ?」
「まあね」
「なんでさっさと言わないかなぁ。いくらなんでもぉ」
「そうだけど」

「よってたかってあんたに絡むのもおかしいわよねぇ。節操なしの相手がひとり増えたくらいでぇ」
「……切っちゃったんだって」
「はぁ?」
エヴァのまぬけな声をよそにカウンターに突っ伏すヒデミ。

「元カレの一人に聞いたの。去年あたしに告ったあと、ほかの相手を全部切っちゃったらしいの。それまでの誰彼構わず状態から真逆、恋人はひとりって宣言したとか」
「告ってすぐにぃ?」
疑うと言うより驚きを込めた声に伏せた腕からチラリとエヴァを見やる。アダムがカクテルをソファ席へ運んでいく。

「すぐったって相手が多いじゃない? 本人も誰と遊んでたのか把握しきれてなかったり」
腕組みしたエヴァが思い切り眉根を寄せる。百戦錬磨の恋の手練れもあきれる事情。

「向こうも似たようなもので。もう誘わないでって言われても本気にとらなかったみたい」
「でしょうねぇ」
「あっちこっちから噂がたってようやく本気かもって思い始めて。丁度彼が不在になったから」

「お礼参りが始まったわけぇ? どこから漏れたかしらあんたのことぉ」
「隠してもいなかったんじゃない?」
エヴァが息を吐く。

「みんなで分けあうならともかくぅ、独り占めは許せないぃって感じかしらぁ」
「子どもがお菓子の取り合いしてるみたいじゃないの」
「どんぴしゃでしょお。彼なら限定スイーツよぉ」

「そう?」
「あんたに告ってすぐ身辺整理なんて誠意あるじゃないぃ。身辺のスケールが違うけどぉ」
言われればそのとおりで、でも気恥ずかしさがヒデミを襲う。

「連中はぜぇーったい信じないわよぉ。そうまでされたあんたが実はまだ申し込みにイエスしてないなんてぇ」
エヴァのとどめにうっと詰まる。さらに気恥ずかしさが増す。

「ヒデぇ、いい加減に返事してあげればぁ? 悪い人じゃないのはわかってるでしょぉ?」
「エヴァったらいつのまにあっちの味方になったの。悪い人とかいい人とかって話じゃないし」
「ふーんだぁ。しっかりその気になってるくせにぃ」
気持ちを見透かす友人は時に考えものだ。恥ずかしさがふくらんで顔が赤くなるのを紛らすようにわめく。

「うるさいわね、こういうのはタイミングなの」
「そんなこと言ってる人に限ってタイミング逃すんだからぁ」
「あいたっ、あぁもうあんたってきつい」

グサッと胸に刺さる一言はエヴァらしかった。
「焦らしてるうちにぃ逃げられちゃっても知らないわよぉ」



エヴァの台詞はずっとヒデミの中でぐるぐるしている。別に焦らしても勿体ぶってもいないつもりだけれど。まず、自分の男を見る眼があてにならない。これまでを振り返れば一目瞭然だろう。出会ったときは絶対いい男だと思うのに、つきあってるうちにどんどん情けないヒモになっていく奴ばかり。

『髪結いの亭主』 って言葉にはしみじみ含蓄がある。ヒデミの彼氏はどれもこれも次第に髪結いの亭主化していって、挙げ句にサラ金に手を出したり暴力に走ったり。今度こそと何度思ったか。

そりゃあ颯がヒモになる可能性はゼロに近い。それどころか顔も性格も経済的にも比べようのない上物で、あんな男が自分を求めていることが信じられない。求めてもらえる自信もない。



先週、遊びに来ていたささらにも颯の元カレカノたちのことがばれた。兄は海外だし自分は大学の夏休みだからとやってくるのだが、たまたま現れた元カノと顔見知りだったらしい。問いつめられて仕方なく白状すると思った通りささらは怒った。

「ヒデミさんに迷惑かけるなんてとんでもないわ。お兄ちゃんたら何のんきに海外なんて」
「ささらったら。知らないからしょうがないわよ」
「しょうがなくない。そんな充血した眼して。なんで言わないの」
「えーっと」

ふっとささらが真顔になった。
「ねえヒデミさん。お兄ちゃんのこと好きになれない?」
まじめに聞かれてうろたえる。

「さ、ささら? 何を」
「だって。困ってるのにいえない関係なんてどうかと思うもの。もう一年になるのに中途半端すぎてなんだか」
「なんだか?」
「ヒデミさんらしくない」
むかっ腹が立って反論してみる。

「何それ。そもそもあたしらしいってどんなの」
「どんなってうーん、言葉にするのは難しい。似てる人なら知ってる」
「似てる人?」
「最近思うようになったの。あの人ヒデミさんとそっくりって」
「どんな風に」
「猪突猛進でうじうじしなくて、白黒はっきり、みたいな」

ささららしい率直さが堪えた。ずっと年下のしかも相手の妹に心配させて。おまけに。
「お兄ちゃんもね、平気そうで結構悩んでる」
ぽつっと言われたことがものすごく気になった。

「悩んでるって、竹園さんが?」
ヒデミの問いにささらは苦笑いする。
「ほらそれ」
「どれ」
「一年経つのにヒデミさんたらまだ、竹園さん、なんて」

あぁと唇をかんだ。幾度も「名前で呼んでくれ」と言われてるけれど、踏ん切りはついてない。彼はずっと呼び捨てなのに。

「お兄ちゃんてこれまで追いかけられてばかりだったでしょ。追いかけることは楽しんでるけど元々そんなに気は長くないの。一年も頑張ってるなんてヒデミさんのことほんとに好きなんだなぁって思う」
「そ、そう、かな」
恥ずかしくて逃げ出したい。

「うん。反面、どうしたらいいのかわからなくもなってるみたい」
「え」
「頭が煮えちゃってるって言うの。好きすぎておかしいって。だから出張行ったんだと思う。 行かなくてもいいのに」

頭の上から冷水がかけられたみたいな気がした。
「行かなくてもいいのに?」

まずかったかなって顔で口ごもりながら、ささらはしかし言い切る。
「少し考えたいって言ってた。どうしたらいいかを」
それってどういう意味とささら相手にでもヒデミは聞けなかった。怖くて。



作るのは時間がかかっても壊すのは一瞬。何だってそういういものだ。形ある物も人との関係も。この一年で自分と颯の間にはなにか作られてきたのだろうか。だとしても壊すのは一瞬で足りる。壊れるのを怖れてる?

単なる臆病者じゃないの。

頭の中でぶちあたった事実にぐわんと衝撃があった。怖がってるんだ。あまりにも自分に有利で都合のよすぎる恋に怯えている。いままでは自分から恋にとびこんだ。危険なんて省みなかった。幾度捨てられても散々な目にあっても懲りることなく、果敢に挑戦してきたというのに。

初めて求められたのがとびっきりの人だから、真っ逆様に落ちたときのことを考えてためらうなんてらしくもない。ささらの言うとおり。威勢と気っぷのよさと向こう見ずが売りじゃなかったの、あたし。



眠れない日が続いてストレスも限界に近かった。あれだけうるさかった元カレカノたちが今日に限って現れない。予約が二件キャンセルされてツトムは休み。せっかく出来たひまな時間もこうなると拷問だ。

ハサミを片手に動物園のクマよろしく、狭い店内をウロウロとヒデミは歩き回る。ストレスの解消法は人によって様々だろうけれど、ヒデミの場合仕事がそれを兼ねる。誰かの髪を切っている時は全てを忘れる。実に有効なのだが相手がいないと成り立たない。

「髪が切りたい−っ」


ヒデミのイライラが頂点に達しようとした時だった。
勢いよくドアが開いて、現れた年配の女性にヒデミは意識を奪われた。





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