10.　出発　


詰め込みすぎた荷物できつきつのファスナーをなんとか閉めて、ショーコはほっと息をついた。お金がないのに一年で意外なくらい物が増えている。キャリーバッグに入りきらないかと思ったくらいだ。あとはショルダーバッグと履いていくサンダルと。

それから、プリンス。キングにもらったぬいぐるみのクマはホワイトデーからずっと抱きしめて眠っていたショーコの宝物だけれど。

「お留守番、お願いね」

ぎゅっと抱きしめるふわふわの感触。この子なしで眠るのはきっと寂しい。何度も迷って結局残すことにしたのは、自分がここにいたという痕跡を、ここに戻るという意志を、何か形で示したかったからだ。

戻ってくると強く思ってる。でも何があるかわからないのが人生だ。さして長く生きているわけではないが、ショーコは嫌と言うほど知っていた。



母からのメールは初めてだった。半ば家出のようにして飛び出したが、母子ふたりきりなのでケー番とメアドだけは知らせていた。それでも一度たりと連絡してこなかった母からの、初めてのメールが入院と手術の知らせとは。

『子宮筋腫なんだよ。あんた、帰って来られるかい？』

ためらいながら電話したら、弱気な声と言葉に驚かされた。子宮筋腫。ネットで調べる限りは即命に関わるという病気ではなさそうなのだが。帰ろうか帰るまいか悩んだ。田舎も母も恋しいと思ったことなどない。一年前ならきっと帰らなかった。でも。



マチの広いショルダーバッグには財布と携帯とあれやこれや。そのどれよりも場所をとるのが、宝円に譲ってもらったノートパソコン。これで向こうでも仕事をするつもりだ。

『うちに来てから長い休みなんぞ取っとらんし、ちょうどええわい』

ショーコの辞意を断固拒否すると、春まで使っていたノートを持ち出し、押しつけた宝円。

『ネットがありゃどこでも仕事はしてもらえるしのう』

気持ちが有り難くて、とりあえず夏いっぱいは甘えることにした。キングのほかにも戻ってくる理由ができてうれしかった。ヒデミとエヴァに至っては、田舎の名産品は何かと問いつめてくる始末。

『お酒！　地酒持って帰ってよ？　いい？』
『甘いものがいいぃ。おいしいお菓子なかったっけぇ？』

デートのためにショーコを着飾らせながら、そんな掛け合いを繰り返すふたりがどれほどありがたかったか。この一年で自分はこの街に、ささやかながら根を張ったのだと思えて。



嗅ぎ慣れた匂いを胸一杯に吸い込んだショーコは、名残惜しげにプリンスをおろすと、きれいに整えたベッドの上にちょこんとおいた。バッグを斜めがけしてキャリーをひっぱってふりかえる。

戻ってくるから。


決意は心に秘めてドアを開けたら、廊下にキングが立っていて。
動揺した。だって。

「お願いしたのに」
「願い事は全部は叶わないものさ」

うそぶく彼の、ハーフパンツにシャツを羽織っただけの姿がまぶしくてショーコは目を細めた。目に焼き付けたいが、心臓に悪い。



入院する母のため田舎へ帰ることにした。
昨夜、説明したショーコはその場で三つ、キングに願い事をした。

朝まで一緒に居てくれること。
いずれ戻ってくるのを許してくれること。
それから、出ていくのを見送らないこと。

承知してくれるのは最後のひとつだけかもしれない、そう思っていたショーコにすれば、最初のひとつが叶えられたのはこの上ない喜びだったし、なおさらひとりで発ちたかった。どっちにしろ。

「見送られるのは嫌なのに」
「見送るつもりはないさ」
「だったら」
「みやげを渡し忘れた」
「……おみやげ？」

首を傾げるショーコに、差し出されたのは小さな包み。
「あけてみろ」

キャリーバッグを置いて言われるままに包装を解いたショーコが、みつけたのはシルバーのブレスレットだった。猫の眼のように光る石が埋め込まれてきらきらする。まるで。

「……ジンの眼みたい」
「キャッツアイだ。きれいだろう」
「これ、あたしに？」
「旅の途中で見つけてな。ショーコが喜びそうだったから」

頬が熱くなった。きっと赤く染まってる。連絡もろくにくれなかったキングが旅の間に自分を思い出してくれるなんて、自分のために何か誂あつら　えてくれるなんて。思いもしなかった。

「高そう。いいの？」
「みやげだ」
「……ありがとう。うれしい」

指先でつまんで取り出すと、左手首に通してみる。元々細いショーコの手首にするりと収まる。軽くなじむ感触がいい。

「似合う？」
「ああ。馬子にも衣装か」
「ひど」
笑って涙をごまかした。泣きたくない。

あえなかった一ヶ月半。
これからまたどれだけあえないだろう。ひと月？　ふた月？
でも頑張る。頑張って、きっと。

「戻ってこいよ」
「え？」
「ちゃんと、おふくろさんが良くなったら」

「……キング？」
「どうした。そう言ってほしかったんだろう？」
「そ、だけど。でも」

「まだ降参してないからな。蕾が枯れないうちにとっととすませてこい」


ずるい。
ほんとにずるい。
昨夜じゃなくて今、ここで、どうしてそんなこと言うのか。

泣かないつもりだったのにショーコの涙腺は決壊した。ぶわっと吹き出す涙ごと、キングの胸に抱きつく。夕べ再会してから一度も泣かなかったショーコの、一ヶ月半分の涙がキングの胸とシャツを濡らした。

「また当分お預けだな」
つぶやきは自分の泣き声で消されて聞こえなかった。



そうしてショーコは田舎へと発った。一年前の自分、田舎を出た頃の自分よりも少しはマシになったつもりだ。離れている間にもっと成長できるよう頑張ろうと、そう誓って。

手首にはキャッツアイ。
言わなかったけど、ほんとはジンよりもキングの瞳にそっくりな輝き。

だから大丈夫。





マンションのリビングで、置いてきぼりをくらった一人と一匹がソファでくつろいでいる。

「寂しいからってヒス起こすなよ、ジン」

膝の上でうたた寝していたジンは、あなたじゃあるまいし失礼な、とでもいいたげに上目遣いでにらんだ眼を、すぐ閉じた。

彼らの向かいにはショーコの部屋から連れてきたプリンスがでんと威張って座っている。どこまで行ったろう。遠ざかる彼女へとキングは思いをはせた。


そばにいたいけど今は離れる。きっぱりと、しなやかな決断に一層惹きつけられた。矛盾とパワーで決して自分を退屈させない彼女。帰ってくる頃にはきっとまた変わっているだろう。楽しみだ。キングの笑みは深く優しい。


『また、みんなに必ず会えますように』

過ぎた七夕にお構いなく、笹竹は夏中ここに置かれそうだ。いつのまにか増えていた短冊。ショーコの丸文字を笹の葉とともに空調の風がふわり、ひるがえらせた。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜　tanabata　/　end　＞