三月も初めのある夜だった。

「ショーコったら景気の悪い顔して。キングと喧嘩でもした？」
「ヒデミさん声でかい。しかも違う！」
「なんだ違うわけぇ？　じゃあどうしたのよぉ」

「エヴァまで。だから、その」
「はっきりしなさぁーいぃ」
「だって、決められないんだもん！」

わめいたショーコはカウンターに突っ伏した。前からエヴァが頭をこづき、横のヒデミは仕方なく背中をなでてやる。ここ、ブーケの店内ではすでに見慣れた光景だ。

本来なら女性は入店お断りのブーケだが、あまりにも頻繁にやってくるショーコはスタッフや常連とすっかり顔なじみになって、なし崩しに出入りを許されていた。いわば特別だ。

「そう、特別！」
がばっと起き上がったショーコにふたりがギョッとする。

「特別な何かってなに！」
「ショーコ。わけわかんない」
「とうとう頭が腐ったんだわぁ、きっとぉ」
「違うってば！」

飲んでもないのに酔っぱらいのテンションでわめくショーコをなだめつつ、エヴァとヒデミが聞いてやる。発端はホワイトデーらしい。

「それそれぇ。あたしはぁお芝居ぃ」
「最近キングがしてるシルバーのシリーズ、ねだっちゃった」
「ヒデったらぁ。彼氏に焼き餅焼かせたいのねぇ」
「ちっ、違うわよエヴァ。人聞きの悪いこと」
「うううう」

うめき声にはっとするふたり。恨めしげにショーコがにらんでくる。

「何ぃ？　何なの気持ちの悪い」
「ショーコだってリクエストしろって言われたんでしょ？」
こくこくとうなずくものの、ショーコはやっぱりうなだれていた。


イベント好きなキングはバレンタインのお返しもきっちりするタイプで、しかもこちらの望みを聞いてくれる。大抵のものはＯＫという太っ腹だ。どうやらそれが逆効果らしい。

「好きなもの選べって言われてもちっとも浮かばなくて」
「どうしてよぉ。あんたぐらいの年ならぁ欲しいものいーっぱいあるでしょうにぃ」
「プレゼントなんてもらったことないし」
ぼそりと呟いた言葉にふたりが口を噤む。

「せっかくキングからもらえるなら特別な何か、って思ったら。余計にわからなくなるし」
「無難なところでもいいんじゃないの？　アクセサリーとかバッグとか」
「そう思ったから今日デパートのぞいてきたんだけど」
「けどぉ？」
口ごもるショーコをエヴァが見る。ヒデミもだ。

「ひとつくらい欲しいものあったでしょう？」
「……クマ」
「へ？」

「おっきなぬいぐるみなの」
「はぁ？」
「一階の店頭にディスプレイされてたの。すっごい大きくて目がくりっとしてふさふさですっごい可愛く……て」

一転勢い込んで熱弁を奮っていたショーコは、絡みつく視線に黙った。開いた口がふさがらないって顔でエヴァが睨む。

「あんたってぇいくつぅ？　お子ちゃまにもほどってものがぁ」
「だって。そういうの持ったことないんだもん」
「エヴァ、ショーコの人生はまだ九割方ティーンなんだから」
「だからってぇ、ぬいぐるみをキングに買わせる気ぃ？」
ぶるんぶるんとショーコが激しく首を横に振ったので、あらと二人が眉をあげる。

「いくらあたしでもそんな気ないよ。っていうか、見てるうちにやめようかなって思って」
「何を」
「ホワイトデー」
「やめるってぇ、キングからのお返しをぉ？　断るのぉ？」
肯うなず　くショーコにふたりが眼を白黒させる。

「なんで」
「欲しいものって言われて必死で考えるのが情けないっていうか。チョコはあげたかったからあげたんだし」
「そういう言い方ぁ、あたしたちがまるでお返し狙いみたいじゃなぁい？」
エヴァの皮肉にショーコがあわてる。

「そうじゃないよ、そんなつもりじゃない。だってふたりはキングとつきあい長いし、そういうことも暗黙の了解でしょ？　あたしは違うし」
「ほんとに欲しいものないの？」
ヒデミの問いにショーコはうーんと首を直角までひねる。

「あっても、キングにねだって買ってもらうのは違う気がする。強いていうなら」
「強いていうなら？」
促されて手元をにらみ、ショーコは小さく呟いた。
「認知、かなぁ」

ものすごい勢いでエヴァがカウンターから乗り出し、ヒデミもつかみかからんばかりだ。
「認知ってあんた」
「ちょっとショーコぉ！　まさか妊娠なんてことぉおおお！」
「……は？」

驚いたのはショーコだけじゃない、店内の視線が一気に三人に集中した。しーんと無音になった店の中央、通路を長方形に飾っている熱帯魚の水槽のエアポンプの音だけが響いて怖い。

「ち、違います、妊娠なんかしてませんっ！　……するわけないもん」
付け加えたひとことがエヴァとヒデミをなんとなくホッとさせる。

「ならなに、そのトンデモな発言は」
「そうよぉ。認知なんて単語ぉ、どっからひっぱったのぉ」
「だからその」
言葉足らずなのは百も承知なので、申し訳なさそうにショーコが説明を試みる。とはいえなんて言っていいのかよくわからない。

「去年、キングに告ってふられたのを覚えてる人が結構いて、この辺歩いてると嫌味言われるの。まだいたのかとかしつこいとか。だから、あたしがいるのはキングも承知してるんだっていう……認識？　あれ？」
「キングのお墨付きが欲しいわけぇ？　誰にもわかるようにぃ？　この贅沢者ぉ！」
自分でもそう思ったのだろう。ショーコは首をすくめた。言いたいことはわからないでもないがとエヴァもヒデミも天井を仰ぐ。

「そういうのは二人一緒にいれば自然に広まるんじゃないの？」
「二人、ってあるようでないもん。忙しい人だし、大抵みんなも一緒だし」
「芸能人じゃないんだからぁ記者会見で発表ってぇわけにもねぇ」
「大体何を発表するんだか。その様子じゃまだ友達以上恋人未満、でしょうが」
「うう」
反論もなく再びカウンターに沈没するショーコ。その上でエヴァとヒデミはやれやれと首を振り合った。

「まあね。もらうもらわないは好きにすればいいわよ。後悔しなきゃね」
「……うん」
「難しい娘ねぇほんとにぃ。形を求める方が簡単。気持ちは無理強いしちゃだめよぉ」

エヴァの言うことはもっともで、だから余計にショーコは落ち込んでしまって、よしよしと撫でるヒデミの手にもなかなか立ち直れなかった。



時間はショーコにお構いなしで走り去る。あっという間にホワイトデーはやってきた。結局メールで「何もいらない」と伝えたショーコだが、キングも忙しいらしく留守ばかり。お返しどころか顔を見られるかも怪しい。

土曜日で仕事は休み、予定もなし。ジンの相手も飽きて日が暮れるやショーコはブーケに駆けつけた。あたりまえの顔をして迎えてくれる場所があることに感謝だ。アダムが微かに口角を持ち上げる。

「ウェルカム」
「なによショーコぉ、あんたが一番乗りだなんてぇ、景気の悪いぃ」
細い肩紐でつられた細身のロングドレス。ねじってあげた長い髪にはラメがふりまかれ、つりあがった眉と赤いルージュはどうみても女性だ。

よくよく見れば広い肩幅とか、首に巻いたふわふわ羽で隠したのどぼとけとか、手の甲に浮かび上がる血管とか。男を示す部分はあるのだが、どーんと腕組みして身構えるエヴァを見てそう思うものは皆無に近いだろう。


「エヴァったら、そんなこと言わないでよ」
「まあいいわぁ。見てみてぇ、さっき速達で届いたのぉ」

眉が少しなだらかになったのにホッとして、ショーコはカウンターの背の高い椅子によじ登った。エヴァがみせびらかしたのは舞台のチケット。「Ｒｏｊｏ　ロホ」とある。スペイン語で「赤」のことだそうだ。

「フラメンコの舞踊団が来月来るのよぉ。ピカイチのところでチケットなんてすぐソールドアウトだったのにぃ、やっぱりキングよねぇ。前から三列目のど真ん中なんてぇ信じられるぅ？」
「これがエヴァのリクエストなんだ」
「そうぅ。二枚って言ったのに三枚もらっちゃったぁ。アダムとヒデも誘っちゃおうっとぉ」

その顔はほんとにうれしそう。なるほどとショーコも思った。こんな風に喜んでくれるならチョコ関係なく骨折っちゃうよね。

「でぇ？　あんたはぁ？」
「なし。いいの。いらないって言っちゃった」
「救いようがないわねぇこの娘はぁ」
そう言っていつのまにか置いてくれたのはマティーニ。いつものエヴァらしくない優しい対応に切なくなる。

そういえば先月もここでめげてたんだっけと思い出す。いっそバレンタインもホワイトデーもなきゃいいのに。元を辿れば単なるお菓子メーカーの策略にはまって自分だけ右往左往なんて。ばっかみたい。

しょんぼりとマティーニに口をつける。定番のカクテルだがいつもはなんだか薬っぽくて苦手なのに、エヴァがショーコ向きにしてくれたのだろう、甘みが強くて美味しいと思った。


店内は徐々に人が増えていった。ゲイのハッテンバもやっぱりホワイトデーだ。カップルは行事を楽しんでいるし、独り者は相手を探しに来る。恋のさや当てもちらほら。達観してただ飲みに来てる人もいる。

いつものブーケだ。表面は華やかで花が競って、でも奥底は脈々と水が流れるようなここの雰囲気がショーコは好きだった。だがここは、毎晩一度や二度はハプニングが起きることでも知られている店なのだ。

今宵、飛び込んできたのはヒデミだった。ぜいぜいと息を切らして言葉も出てこない様子。

「ヒデぇ？　どしたのぉ」
「……っングっ……がっ……道……抱えっ…」
「ヒデミさん？」
よろよろとカウンターにすがってなんとかしゃべろうとするが、ちっとも聞き取れない。アダムが差し出したグラスの水をぐいと飲み干す。

「っ……ぁあー、苦しかった」
「何事よぉ」
「だから、キング」
「キングぅ？」
「キングがどうかしたんですか？」
不用意に出した名前で、カウンターの向こうとこっちから飛びつかれそうになる。

「どうかって、来てないの？」
「誰がぁ」
「キングが」
「どこに？」
ヒデミはショーコを見て周りを見てショーコを見る。
「……あれ。変ね」

ぱっかーんと、どこから取り出したのかハリセンで、ヒデミの頭が音高くはたかれた。もちろんエヴァだ。吉本新喜劇も真っ青。

「変なのはあんたでしょおがぁ。ちーっとも要領を得ないわぁ。ショーコみたいぃ」
「あたしは関係ないでしょ」
「否定できるわけぇ？」

「うっ、でき……ないっけど」
「ほらみなさいぃ」
「だからそうじゃなくて」

「相変わらず賑やかだな」

ドアが開く音に気づかなかった。投げられた声音に誰もが振り向く。それだけの力が声にすらあった。

「キング？」
「キングぅー、マジでぇえ？」
「……やっぱり」

誰もが驚いた。ショーコはさらに。ヒデミが騒いだのも無理はない。こんなもの持ってキングが歩いてたらそりゃあ事件だ。一大事だ。つかつかと歩み寄ってきた彼が、椅子に座ったショーコの膝にそれをぽんと乗せる。

クマのぬいぐるみ。デパートで見たよりずっと小さいがもっと可愛いとショーコは思った。ふさふさの毛並みでちょうど抱きしめられる大きさと抱き心地。片手にはキャンディーが結びつけられ、首にも大きくリボンが花結びされた、間違いなくホワイトデー仕様のキャンディ・ベア。

「……なんで？」
その疑問は当然だろう。
「欲しかったんだろ？」
のぞき込まれて声もなくこくこくとうなずく。

欲しかった。クリスマスも誕生日もお正月も、一度だってこういうものをもらったことがない。抱きしめるだけで暖かくなれそう。でも。

「だって。あたし、いらないって」
「おまえの情報はある意味、筒抜けだから」
「へ」
サングラスの影からショーコの後ろと前、知らんぷりを決め込もうとするふたりに向けられる視線。その意味。

「……ヒデミさん？　エヴァまで？」
「あーたしは知ぃーらなぁいぃい」
「エヴァもキングに教えたのね。そりゃあたしも言ったけど。ほんとに買うとは思わないから外歩いてくキングを見て、店飛び出してきちゃったじゃないの」
「ヒデこそ言わなかったくせにぃ。そもそも何も返さないなんてぇキングの名折れよぉ。沽券こけん　に関わるじゃないのぉ」

ぶつぶつ言い訳しながらキングに手早くグラスを出したエヴァが、改めてショーコが抱いているぬいぐるみを見て笑い出した。

「ちょっとキングぅ、その子何者よぉ。見て見てヒデぇ」
「何なに……ぶぶっ。ほんと、何者？」
「いい名前だろ」
「へ？」

膝の上のぬいぐるみをショーコがあわててのぞきこむ。クマは大きなリボンの蔭にフリルのエプロンをしていた。そこに描かれている文字。

”My　name　is　Prince！”

「プリンス？」
「よだれかけして、王子様ですってぇ？」
「よく見ろ。頭に冠乗せてるだろ」
確かに。キラキラ光るビーズで作られた小さな王冠が、クマの額にちょこんと縫い付けられている。

「なーる。王様から贈られた王子様ってわけね」
「きゃあっ、キングったら洒落てるぅ〜」
あまりの騒ぎにのぞきにきた他の客まで、クマとキングとショーコを見て吹き出す始末だ。笑い声に囲まれてショーコの胸は喜びと感謝で一杯になった。

欲しいものすらよくわからない自分に、キングが、みんながくれる嘘のない気持ちは、すぐそこまで来ている春のように温かい。


「ほら行くぞ」
「え？」
「なに、どこ行くのキング」
「ちょっと散歩に。それしっかり抱いてろよ」
「キング？」

サングラスの向こうでどんな顔をしてるのか。わからなくても彼の差し出す手をショーコが拒めるわけもなかった。クマを抱え直したのとは反対の手を預けるとしっかり握られる。

口ひげに覆われた口元がほころぶのを見てドキッとしたショーコの、頭越しにブーケの面々へと彼は手を振った。
「じゃあな」

引っ張られる手の温もり。抱きしめたクマの感触。
ショーコの思考はパンク寸前だった。



ドアは閉まった。呆れた眼と眼が交わされる。
「なんだあれ」
「クマとショーコ連れてぇ、ネオン街を練り歩こうってんじゃないのぉ」
「そうか。認知、ね。キングったら気が回ること」
「……甘過ぎ。実はベタぼれじゃないのか」

ぼそりとアダムが呟いた、その一言が死を招く。

「なんですってぇええ」
「うわ」
「エヴァ、落ち着け！　刃物はまずいって」
「ナイフ置きなさいっ」

たとえアダムが相手でも地雷を踏んで命の保証はない。興奮したエヴァのお陰で一気に殺伐としたブーケの事など知らず、ショーコはキングとふたりで歩く夜の街を満喫したのだった。



遅くなって帰り着いた家で、焼き餅か縄張り意識か、プリンスにやたらと爪を立てようとするジンと繰り広げる激しい攻防戦を、まだショーコは知るよしもない。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜　candy　bear　”Prince"　／　end　＞