ショーコが仕事帰りにたどる道としては、まず家、それからヒデミのところとブーケがどっこいどっこいだ。それくらい通い慣れている。毎晩のように入り浸ったことだってある。

どうしてそうなったんだろう。さっきも思ったことをまた思いながら、通りすがりのショーウインドウに足を止めた。

映っているのが自分に思えない。赤いパンプスに赤いドレスを着たヒツジ。異次元な気分だ。いったいブーケで何があるやら。何でもアリだが。

ブーケを訪れる客は我が家のようにあそこを愛している。店と店主を。豪快で傲慢でわがままで乱暴な店主だけれど、反面どこまでも優しくて面倒見がよくて気遣ってくれる。気に入らなければ早々に切り捨てるのに、受け入れたらどこまでも受け入れる懐の広さ深さは驚くほどだ。

つまり自分に理由があるんじゃなくて。
「エヴァの気分よね」

気づくと通行人の視線が集まっていた。赤いドレスのヒツジが独り言をブツブツ言ってたらそりゃ目立つ。ここは繁華街でしかもハロウィン、今夜は怪しげな人も多いけれど、今怪しまれているのは自分だ。極力平静を装ってショーコはその場を逃げ出した。


「ケモノのみ歓迎」

キングから聞いていたとはいえ、ブーケの扉にぶら下がった札はショーコを当惑させた。ヒツジってケモノかな。入っていいの？　おまけに扉の前には二人の、じゃなくて二匹のクマが控えていた。大きな体にクマの帽子じゃなくリアルなマスクをつけて立っている。門番？

「あのう」

おそるおそる話しかける。クマ　VS　ヒツジ。ギャグかファンタジーかおとぎ話か。食物連鎖を前提にすれば逃げるべきだが、見上げるようなクマはじろりとショーコ、じゃなくてヒツジを見下ろし、表情をゆるめた。見間違いでなければ笑ったような。

「入れ」

開かれた扉の、向こうを見てショーコはさらに固まった。
うわうわあわわわあ。
辛うじて口は押さえたものの、頭の中が悲鳴が跳ね返る。

いつもは相手を求める男性でいっぱいの店内が、本当にケモノでいっぱいだった。イヌに始まってネコ、トラ、馬にオオカミに何故かカボチャまで、カウンターもボックス席も隙間まで詰まってる。

エヴァは魔女の姿でカウンターにいた。さっきのイヌも横にいる。やっぱりアダム？
『来ない方が』
アダムがわざわざ言ったってことはまずい？　帰る？

ショーコのためらいが聞こえたみたいにエヴァがぐるっと振り向いた。うわああ。再び頭の中で絶叫が鳴り響く、その間にカウンターをすり抜けてきた魔女に、つかまった。

「げっとぉおおおー」
「え、え、エヴァ、ぁぁああ？」
ケモノだらけの店内に有無をいわさず連れ込まれてしまった。

「今年のイベント、ヒツジちゃんのお出ましよぉお」
エヴァの勝ちどきに沸き上がる歓声。

「よっ、待ってました」
「いいじゃんいいじゃん」
「かっわいー、細いねえー」
ケモノたちの目が爛々と輝いている。怯えるくらいの輝きだ。

「彼女をゲットできたら、今夜の王様よぉおお」
「やるぞー！」
「ドンと来いだ」
「さあ、くじを引いてええ。アダムぅううう」

イヌのマスクをしたアダムが花瓶を持って現れた。きれいなスカーフで包んであって中は見えない。肩をすくめたアダム犬が哀れむようにショーコを見て、声を出さずに口を動かす。

バ・カ？

「バラの蕾を引いたらあったりぃいいい。早いもん勝ちぃいい」
「おーー」
「こいこいこい」
「エエエエヴァ、エヴァ、待って！」
振りかざしたその手にショーコはすがりついた。

「待て待てお願い待って、なに？　誰が勝ったら何がなんなの？」

もう必死だ。自分が絡んでるのに状況が見えない。なのにエヴァときたら笑うだけ。気のせいかいつもより笑みが冷たい。

「聞いたでしょぉお？　今夜来たのが運の尽き、あんたはご馳走。勝者へのご褒美よおおお」
「ご褒美って」
「まずぅうう、ぶちゅっとキッスぅ、もちろんマウストゥーマウスよぉお」
「な？　キ？」
聞き違いと言って欲しいが、そんなわけなかった。
「安いもんでしょぉお」
「なんでっっ？」
知りもしない人となんで？

「ハロウィンのパーティーだからぁ」
「だっ、キっ、知らないひとっ、と？」
「文句却下ぁ、問答無用ぉお」
「エヴァぁーっ」
「あたしの店よ。文句あるぅうう？」
「そんなあー！」

来るんじゃなかった。ああもう。逃げなきゃ。だがショーコの手はエヴァにロックされていて周囲はケモノだらけ。どこからどうやって。

その間にエヴァはゲームを始めようとしている。どうしようどうしよう、キスくらいっていうけど、そりゃそうかもしれないけど。

浮かんでくる顔はひとりだけ。
泣きそう。

「さあ、一番手はだれぇええ？」
「はいはい！」
「おれーっ」
「僕だ！」

バンッッッッ！！！！

店内ものすごい喧噪を、派手な音とともに開いたドアが遮った。
全員が振り返る、そこに。

ライオンがいる。
ライオンがいた。

金色のたてがみが顔全体、首もとまで覆ってふさふさしている。タキシードはスタンダードなのに高級品なのがわかる。靴も同じ。

つかつかと歩み寄ってくるライオンの目にショーコは息をのんだ。
だって。


無言で彼が手を伸ばすと、あうんの呼吸で花瓶を差し出された。迷いもせずにつかんだ一本。取りだした茎の先にはかわいらしい蕾の、バラ。

当たり？　うそ。

「もらってくぞ、エヴァ」

静まり返った場に響く低く深い声。全身を震わせながらショーコもエヴァを見た。ふてくされた顔がライオンをにらんでいる。 ライオンと魔女の対決ってどこかのファンタジーみたい、じゃなくてまままずい？

「まーったくぅうう、どれだけ誘ってもぜぇええーったい来なかったくせにぃいい」
「……なに？」
「しっかり仮装までしてぇえ、ほんっとにほんっとにぃいいい」

火花が散るような緊迫したにらみあいに、キングの後ろで焦りまくっていたショーコだったが。

「……ほんっとにつかまっちゃったのねぇえ、こんな小娘にぃい。ライオンキングがあああ」

愚痴のようなエヴァのつぶやきに、マスクの向こうで彼が目を見張ったような。そこで店内が一転、大歓声に包まれた。エヴァに押し寄せる客たち。

「勝ったあー！」
「俺らの勝ちだ！」
「だよな？　だよな、エヴァ？」
「約束覚えてるよな！」

カウンターで追いつめられ、苦虫を千匹も噛みつぶしたような顔で、エヴァはとんがり帽子を床に投げ捨てた。

「あぁもぉおお、わかってるわよぉ、あたしの負けぇええ、今夜はロハぁあああ！」
「やーったあーーーーっ！」
「エヴァに勝ったーー」

唖然として聞いていたショーコにもおぼろげながら見えてきた。ハロウィンのほんとのイベントはくじなんかじゃなくて、彼が今夜、ブーケに来るかどうかの賭けだったのか。

そーっと後ろの彼を見上げると、口元がゆがんでいる。怒ってるのか笑ってるのか。彼と、エヴァの視線が再び絡んだ。

「はめたな、エヴァ」
「はめられたのはあたしよぉお、いくらショーコを餌にしたからってほんとに来るなんてぇええ、王様の威厳形無しぃい。おかげで商売上がったりだわぁあ」

口をとがらせながら手早く酒をついでまわると、生徒指導の先生よろしくグラスをこっちへ向ける。

「ほらあんたたちもぉお、ヒツジちゃんとライオンキングにぃかんぱぁいぃいい！」
「かんぱーい！！」
「ちあーず！」
「キングに感謝ーー！」

テンションあげた客たちがこぞってふたりにグラスを掲げる。
ヒツジとライオンに集まるグラス。

奇妙な絵は一瞬で、客はすぐめいめいの騒ぎに戻り、エヴァがカウンターの向こうから、しっしっと手を振った。ケモノを追いやる仕草とでもいうのか。
「イベントはおしまいぃ、用なしよぉおお、さっさと消えてぇええ」

ライオンが呆れたようにショーコの腕をつかみ外へ向かう。
「ショーコ！」
肩越しに振り返ったショーコは投げられた物を辛うじて受け止めた。赤いリボンの可愛らしい包み。

「お疲れ賃よぉお。美味しいキャンディ−、有り難く思いなさいねぇええ」

目があったエヴァはほほえんでいたけど、何かどこかほろ苦い寂しい顔に見えて、ショーコは何も言えなかった。



バタンとドアが閉まった。門番はもういない。札は「本日貸切」に変わっている。夢でも見ていたのかと彼を見るとやっぱりライオンだ。夢じゃない。ライオンが笑った。

「やられたな」
「わけわかんない」
「全くだ」
顎に触れた手で、マスクを思い出したらしく尋ねてくる。

「俺だとすぐわかったのか」
「目を見たらわかるよ」
「そうか」

彼のまなざしが柔らかくなる。その毛並みにそっと手を伸ばし、感触を味わう。首っ玉にぶらさがってするキスはふたりだけの恒例行事。

「おかえりなさい」

ドレスの腰を引き寄せられ、抱きしめられてほっとするが、ヒツジの角が彼をつつきそうで気になる。

「あぁじゃま」
「待て。せっかくだから練り歩いて帰ろう」
意外な提案にショーコの方が驚く。

「ヒツジとライオンで？」
「イヤか」
「嫌いじゃないの？　こういうの」
「毒を食らわば、だ。踊る阿呆ってのもあるな」
そう言った彼が、改まって腕を差し出した。

「マドモアゼルヒツジ、お手をどうぞ」
「え、と、はい」

なんといってもハロウィンだ。変な格好の通行人も珍しくないが、ドレスのヒツジとライオンキングのカップルはとびきり目立つ。でも彼となら衆目を集めるのも楽しいだけだ。


魔女のくれたおとぎばなし。


星も見えない空の下、ネオンが魔法のようにきらきらしていた。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜　Eva's　challenge　/　end　＞