「……キング？」

おずおずとした声はしみこむように耳から脳へと達した。凪の水面が風に震えるみたいに心がざわつく。声の主を思い浮かべるのを合図のようにまぶたが開く。

「キング」

誰とわからなくても、柔らかなまなざしを感じていた。彼女の顔を見て広がる安堵は折り紙のようにキングを包んで、和ませる。

「具合はどう？」
「……悪くない」
「ご飯、食べられる？」
「ああ」

もぞもぞ起きあがった毛布の隙間からジンがお役御免とばかりに飛び降りた。不寝番のつもりだったかと苦笑する。両手にトレーを持って入ってきたショーコはジンをリビングへ促した。

「ご飯ならあっちよ」
みゃあと返事を残して、閉まっていくドアの隙間からするりとジンは出ていった。

「うどんにしたの」

ネギのみじん切りをのせてつゆに浸っているうどんの湯気が空腹をつく。膝の上にのせられた丼を両手で抱える。かつお出汁のしっかりした味とつるんとしたうどんが乾いた喉を喜ばせる。

「うまい」
「ほんと？　よかったあ」

ショーコの声が耳に心地いい。まるで自分が食べてるみたいに嬉しそうな顔がベッドの脇から見上げてくる。うつるから近寄るなって言ったのに、熱でうつらうつらしている間も必ず、目が覚めるとショーコがいた。それを受け入れている自分が、不思議だ。

丼に半分ほどの量をきれいに平らげるとトレーごと引っ込んだ。代わりにショーコがにこにこしながら差し出したのはイチゴだ。白いボウルに丸まると太ったイチゴが艶を帯びて光っている。見るからに。

「美味そうだな」
「でしょでしょ？　ほら食べて」

なんでそんなに嬉しそうなんだか。
あんまり嬉しそうだからつい、言ってしまった。

「食べさせてくれるんじゃないのか」
「……へ？」
ぽかんとするショーコにもう一押し。
「せっかくなら、あーんってさ」

ボッ。
ショーコの顔が見事に赤く染まった。つい楽しんでしまう悪い癖は自覚しているものの、この癖が出てくるってことはと自分をはかる。どうやら体調が戻ってきたらしい。冷静なキングに比べてショーコはすっかり舞い上がり目があちこちしている。逃がすものか。

右手にボウルを持ち替え、左手で手を引いた。体勢を崩したショーコを膝に横座りさせると、目の高さが同じになる。狼狽うろた　えすぎて見開きっぱなしの目。虹彩こうさい　のきらめきを愛でながらも、ボウルを差し出すのは忘れない。

「いいだろ？」

からかう口調が負けん気を刺激したのか、むっと口をへの字にしてフォークを握った。ぐさっとイチゴを刺して身構えられるとなんだか。

「俺を刺すなよ」
「そんなことしないもん。はい、あーん」
自分で言ったくせに真顔で言われるとかなり気恥ずかしいが、いまさらだ。素直に口をあけてイチゴをほおばった。なるほどこれは。

「うまいな」
ショーコの目が嬉しそうに細くなる。
「風邪にはビタミンだよね」

一度やってしまえば照れもなくなるらしい。
ふたつ、三つ、四つ。
いつものショーコならつまみ食いしそうなものなのに。
五つ六つ七つ。
ひなに餌をやる母鳥のごとく、一心不乱。
八つ九つ。

あっというまに残りは一つになってしまった。
一番大きな、十個めのイチゴ。

「食べないのか？」
「キングに買ってきたんだもん」
「ひとつくらい食べろよ」
「いいから、はい」

かたくなな彼女をからかいたいのは、熱のせいということにしておこう。フォークに刺さったイチゴを口に挟んで抜き取ると、そのイチゴごとキングは唇を突き出して見せた。驚くショーコに目で促す。

（食べろよ）

ポッキーゲームのイチゴバージョンてところか。
ためらっていたショーコもとうとう誘惑に負けたようだ。赤くなりながらそっと唇を寄せると、少しイチゴをかじり取った。

「……甘い」

丸くなった目が三日月のように弧を描いて、嬉しそうだ。キングはさらに誘った。もう一度ショーコがかじる。もう一度。

唇が触れた。
数センチの距離で視線をからめながら、含んだイチゴをかみ砕く。
ごくりと喉が鳴って、キングの自制が切れた。


風邪をうつすまいと、このところベッドはもちろん接触もキスも極力、避けていた。反動がきたらしい。腰を引き寄せあごをとらえ、口を押し当てる。ショーコは即座に応えてきた。白状すれば嬉しかった。

触れて離れて嘗めてかじって離れてまた重ねる、くちびる。
ああ、ショーコだ。

とびきりのイチゴ、十個よりも甘く。
キングの心をいっぱいに満たす、ただひとり。
たったひとり。


唇を貪りながら、華奢な背中をなで上げなで下ろす。切なそうにショーコがうめく、喉の奥からの声も呑み込んで、さらにキスは深く。風邪とは別の熱で火照り、猛る身体でショーコを組み伏せる。

ガリガリと扉に立てられる抗議の音はどちらの耳にも届かない。
早い冬の日が暮れるまで時を忘れた。





後日。
全快したキングを待っていたのは、お約束のように風邪をもらって寝込んだショーコと、いつになく近寄ろうとしないジンだった。大事な女性それぞれの、世話とご機嫌取りにキングが苦労したのは、別の話。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜　Strawberry-cold　/　end　＞