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桜が満開なのは彩芽もよく知っていた。
咲けば嫌でも存在を主張するのが桜だ。通勤電車の中から、会社への途中で、配達の車から、遠目に横目に彼方に目に付く。ゆっくり見たい気持ちとは裏腹に四月も花屋は大忙し。商売繁盛はありがたいが花屋がこの季節を愛でられないとは理不尽、などと言うヒマもあらばこそ。
終わってみれば今日もこんな時間だ。真っ暗な夜空を見上げ彩芽は口を尖らせた。仕事は好きだし充実しているが忙しすぎる。贅沢な悩みに違いない。まあいいやと尖らせた唇をゆっくりと笑みにする。
明日は休みだ。早起きして家事を片づけたら右生を花見に連れ出そう。天気予報は午後から怪しげだったがかまやしない。どこにしようか。
一日の疲れもどこへやら、ワクワクと企みながら駅へと歩きだした彩芽の足が、会社敷地を出たところで止まった。
「やーっと来たな。待ちくたびれたぜ」
「右生？」
バイクを傍らにライダーズジャケットを身にまとい、ヘルメットを手にしているのは間違いなく右生だ。右生だけれど。４月はどちらかといえば堅めの仕事が多くエスコートの忙しさはほどほど。ここしばらく右生の方が帰りはずっと早かった。とっくに家にいるはずなのに、どうして。
「メール見てないんだろ」
「へ？」
あわてて携帯を取り出すと確かにメールが。相変わらず短い。
『外にいる』ってこれだけじゃ。
「……読んでもわけがわからないと思う」
「いいからほら」
「え？ わっ」
シートボックスから取り出した彩芽用のヘルメットを放り投げられ、あわてながらなんとか受け止めた。その手に薄手のジャケットがもう一枚乗せられる。代わりに彩芽の荷物を取り上げてしまいこみ、ヘルメットをかぶり直してバイクにまたがろうとしている彼。
「どこ行くの」
「行ってのお楽しみ。乗れ」
「えー？」
「行かないのか？」
ずるいと思う。この状況で行かないなんて誰が言うんだか。
「行くわよ」
プンプンしながら支度した彩芽は彼の後ろにまたがった。仕事柄いつだってパンツスタイルなのはこういうときありがたい。広い背中から腰に腕を回す。
「ＧＯ」
右生はなめらかにバイクを発進させた。どこへ？ さっきひとりで温めていたワクワク感は今やふたりでのワクワク感に代わっていた。
やってきたのは都内で花見といえばここという公園だった。広くて緑がいっぱいな分、夜はおそらくうっそうとして不気味な雰囲気だろう。でも今宵ばかりは違った。
桜。
さくら。
サクラ。
園内に生えているのは桜だけかもと思わせるほどこぞって満開。実に見事だがそれ以上に驚かされたのは人だ。ありとあらゆる場所に花見客がいて足の踏み場もない。ニュースで毎年のように流される光景が寸分違わず繰り広げられている。あれって事実だったんだなぁと彩芽はぼんやり思った。
渡されている提灯のほの暗さとは対照的なにぎやかさ。おばけがいても裸足で逃げ出す……おばけに足はなかったっけ。初めて目の当たりにするどんちゃん騒ぎに圧倒され、口を開けたままきょろきょろ歩いていた彩芽は後ろから頭をはたかれた。もちろん彼に。
「っったあ〜いっ」
「あほ面」
「だって」
「見るものが違ってる。酔っぱらい見に来たわけじゃないだろ」
おっしゃるとおり正しい指摘だ。でも。
「……人多すぎるんだもん。立ち止まる場所だってないよ」
「確かにな。聞きしに勝るって言葉はまだ使えるわけだ、おっと」
二人は花見客が敷き詰めたシートの間、わずかに許された通路をすりぬけているのだが、同様の見物人も多くて押しあいへしあいなのだ。右生は左手に缶ビールとつまみをぎっしり詰めたビニール袋を持ち、よそ見しては転びかける彩芽を右手でホールドしてくれる。
乗ってきたバイクを留めたのは公園よりも手前の、すでに灯りを落としたビストロの裏手だった。勝手にいいのと聞くと、店主と知り合いで断ってあるという。メットをしまうと近くのコンビニでビールを買い込もうとする彼にまたびっくり。
「誰かンちで飲み会？ 酒気帯び運転なんて言語道断だからね」
「当然。飲みたいのあるか？」
涼しい顔で肯定し聞いてくる右生。わけがわからぬまま彩芽も買い物に参加する。
「新商品、これ飲みたい」
「あ、こっちも」
「……食い物も入れろよ、すぐ酔うくせに」
大きな袋にギュウギュウに買い込んで、そこから数分。連れてこられたのが夜桜満開の公園、というわけだった。
「でもなんで」
「花見、したかったんだろ」
このところ花見がしたいと叫びまくっていたのは確かなのだが。
「だから明日の休みに」
「天気悪そうじゃん。雨桜より夜桜。にぎやかなほうがいいし。違ったか？」
彩芽を押し退けて先へ行く男をにらんだ右生が肩を抱いてのぞき込んでくる。彼女としては口元がゆるむのが当然だろう。
「違わない。うれしい」
「だろ」
「でも人が多すぎて立ち止まる場所もないね」
「ああ。俺もここまでとは思わなかった」
「右生も初めて？」
「花見すると思うか、俺が」
「思わなーい」
「こいつ」
混んだ人波ではこづくこともままならず、片眉を上げる右生に笑う彩芽。まるでお祭りだ。にぎやかで破天荒で騒々しくて誰も彼も幸せそうだ。歩いているだけで十分その雰囲気はわかるけれど。どうせなら。
「……空いてないねえ」
「いっぱいだな。いっそ歩きながらにするか」
「うーん」
こんなに桜だらけならどこにいたって花見。こだわらなくてもいいのに、ぶらぶらと歩き続けてはずれまで来てしまった。ふりかえると通り過ぎてきたドンちゃん騒ぎが見渡せる。混ざりたいなぁ。
物欲しげな視線をふと転じた彩芽は、並木から離れた場所に一本の桜をみつけた。ほかの木よりも小さくてでも枝振りが見事で堂々として見える。他の木よりも先に花をつけたのか他の木より先に散り始めている。誘われるように足が動いた。
「彩芽？」
右生の気配は後ろからついてきた。並木と一本桜のちょうど半分あたりで彩芽は立ち止まった。春とはいえ夜は冷える。背中に貼り付いた彼の温もりが有り難い。大きなホッカイロみたいだ。
「あの木」
「あれ？」
「きれいじゃない？」
「……まさに見頃、散り際だな」
「なのに人が少ないね」
不思議だった。あんなに見事なのに花見通りから離れているせいか、その下は１グループだけだ。
「あそこに混ぜてもらえないかな」
「……マジ？」
何故か眉をしかめる右生。その腕をがしっとつかんで彩芽はずんずんと歩きだしていた。
「お、おい」
「当たって砕けよう」
「待てって、あれは」
桜だけ見ていた彩芽は止める右生にかまわず足を進めたのだが。
近づくに連れて彼の言いたかった意味がわかってきた。集っていたのはホームレスの一群だったのだ。これまで通り過ぎてきた騒々しさに比べると静かだがさすがにためらう。
漏れ聞こえていた親しい者同士のさざめくような会話が、右生と彩芽の姿に気づき止んだ。邪魔して申し訳ない気持ちもあったが、ここで怯むのは悔しいし、なによりこの桜を間近で眺めたい。意を決して声をかける。
「あの、あたしたちも混ぜてもらえませんか？」
答えはない。宇宙人が現れ話しかけてきたみたいな顔だ。困って右生を見上げる。やれやれと眉を上げた彼は、いつもより愛想のいい顔と声音に変わった。
「悪いな。彼女がどーしてもこの桜の下で花見がしたいっていうんだ。頼むよ。タダとは言わない」
そう言って買い込んできた袋をドンと置く。
「参加費。花見は大勢の方がいいし」
人生の経験値はやっぱり右生のほうが高いようだ。年輩だったり薄汚れていたり髭ぼうぼうだったり、ふたりをいぶかしんでいた顔が右生が差し出した獲物を見ておおっと歓声をあげ表情を崩した。
「いいのかあんちゃん」
「太っ腹っちゅうか、変わっとるっちゅうか」
「せっかくのデートをわしらとしようなんて、ふつうは考えんぞ」
「彼女も。ほんとにええのかい？」
意外にふつうの気遣いをもらって、すっかりうれしくなった彩芽はうんうんうんとうなずいて笑顔になる。
「だってこの桜、すっごく綺麗だから」
「だろう？ こいつはなぁここらの桜の中でも古株でのう」
「せっかちで、初めに咲く木のひとつで最初に散る桜のひとつでもあるわい」
口々に語る様子はまるで、古くからのしりあいみたいだ。
「昔から知ってるの？」
「俺はまだ５年くらいだが、ドンさんはここらで２０年も過ごしとるから」
「２０年も？ すごい」
「おお、毎年必ずここで花見じゃ。わしが場所取りすりゃほかのグループは近寄らんからのう」
かっかっと笑うのは髪もほおひげも真っ白なじいさん。右生が彼の言葉を混ぜ返す。
「俺たちがきたじゃん」
「そういやそうだ。春の椿事じゃわ」
「桜が散る夜は不思議なことも起きるさ」
わいわい言ううちにふたりはすっかり輪の中へ混じっていた。紙コップやら茶碗やらが手に手に掲げられる。
「よし乾杯」
「おお、時の氏神さまに乾杯じゃ」
「それって右生？」
「バカ、おまえだろ」
「えーなんで」
「いいから飲め飲め」
ぶしゅぶしゅと泡がこぼれて冷たいビールが彩芽の喉をいきすぎた、この瞬間が一番おいしい。
「くーーーっ、おいしいっ」
「おおっ、姉ちゃんええ飲みっぷりだわ」
「もっといけー」
「彼氏同伴だ、心配いらんぞ」
「ラジャー、柚池彩芽、飲みます！」
「冗談じゃない、こら、おいって」
珍しく気合いを込めて飲んだら効果てきめん。そのあと彩芽の記憶はどんどん曖昧になっていった。
飲んでしゃべって。
飲んで歌って。
飲んで踊って。
踊った？ あたし踊れたっけ。 なにを？
惜しげなく花を降らす桜の下で、思いがけないでもこの上なく楽しい、それは花見の宴となった。記憶が途切れるまで。
いくらひとりじゃないからって女の子が、ホームレスに混じって騒いで花見を満喫するか？ こいつならではだよなあ。
前後不覚になりつつある彩芽を右生は真横から見守っていた。誰かが三線さんしん を引き始めると、沖縄が故郷だというガラさんが両手両足を動かしてみせる。そしたら彩芽も真似して踊りだした。飲んだ量はともかく酔い加減でいえば一番酔っているに違いない。先に腹を満たせとあれほど言ったのに、しょうがない奴。
そういう右生は缶ビールじゃどれだけ飲んでも酔わないが十分楽しんでいた。目的は彩芽を喜ばすことで他は大して期待してなかったが、彩芽は彩芽だ。彼女が行くところ何かが起きる。つくづくサプライズな女だな。
Man Hallに居た頃もそうだったと思い出す。癖のある連中ばかりだったのに、彼女がいる席はいつのまにやらホストの休憩所と化していた。そういうところは変わらない。変わらないことにホッとしている。
風もないのに桜が降る。降り注ぐ。散り際の宴会を桜も喜んでいるようだ。雪のように舞う桜の下で踊る彩芽。夜桜に彼女の指が、腰が、髪が、光って浮かびあがる。酔ってるな、俺も。
どのみち花見のあとは近くのホテルにしけこもうと思っていた。その前に誘われてる気分だ。いつになっても飽きさせない。本人はそんなこと気づきもしないで足下がよろめいて桜に抱きついたりしている。
ほんとバカ。
抱きつくなら俺にしろよ。
夜桜よりも自分の眼を奪うバカだけど愛しい女に、はちみつより甘い視線を右生は注ぎ続けた。彼女がつぶれるまで。
夜桜ハニー。
その後の彩芽は、右生だけが知っている。
＜ Honey blossom in the Night ／ end ＞
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