誰にだって調子の悪い日はある。
バイオリズムが最低とか、ベッドの間違った方から下りたとか、星の巡り合わせが悪いとか。

どうやら今日がそうらしい。
床とお尻を激しくキスさせて、遅ればせながら彩芽は気づいた。


注文票を読み間違えた。
指定の花がなかった。
頭痛がする。
落とすつもりじゃなかった枝をばっさり。
とどめは作業場の床には付きものの水たまりに滑って、派手に尻もちをついてしまった。

「いたーっ」

どっと起きた爆笑は仲間のスタッフたちだ。
いつもは一緒に笑えるのに、今は、にらまないのが精一杯。

「彩芽、気分転換」

軍曹の命令よろしく真白がドアを指さした。子どもだったら「めっ」と怒られているだろう。あいにくというか幸いというか、もう子どもじゃない。仕事に不機嫌を持ち込んじゃダメよね。

「はぁい」
「彩芽」

しおしおと出ていく彩芽に、もう一度声をかけた真白は何かを投げた。かろうじて受け止めたら彼女の定番、目覚ましキャンディ。しゅわしゅわと口ではじける感じが彩芽は得意じゃないけれど、気持ちは別だ。

「ありがとう」

なんとか笑って作業場を出たものの、心は自己嫌悪で一杯だった。
忙しいのに何やってるんだろう。自分が腹立たしい。
キャンディをもてあそびながら、ガラス張りの廊下から外を眺める。

空までどんよりしょげている。
七月七日。
天の川は見えそうにない。それもまた腹立たしい。
織姫はさぞやがっかりしているだろう。

彦星でも牽牛でもいいけど雨だと会えないなんて情けなくない？　年に一度しか会えないのに空模様次第なんて理不尽だわ。男らしさをみせろっていうのよ。空を飛ぶとか川を泳ぐとか牛に乗って波を越えるとか。

ううん、とそこで考え直す。

男のせいにするのも良くないわよね。女だってできるはず。織姫だって気球とかハングライダーとか、そもそも年に一度をおとなしく待ってないで、行動すればいいんだわ。

欲しければ。


「彩芽？　休憩か」

いきなり声をかけられて驚いた、外回りで忙しいはずの右生が、どうしてここに。彩芽の疑問を彼はあっさり読みとる。

「ちょっとトラブルでさ、状況修正と商品追加に」

トラブルなんてほんとかと思うくらい余裕のある表情。毎日見てるのに、今だけそのきれいな顔に向かっ腹をたてる。さっきからのしょげた気分、腹立たしさや理不尽な怒りが、はけ口を見つけてなだれこんでいく。同時に熱にも襲われる。

たまには焦らせたいじゃない？
女にだってある。不意に沸き上がって指先まで支配する熱。
あるのよ。

だったら？

腕組みしてガラスに寄りかかっていた右生の手首をつかんだ。
「どした」
「いいから」


どこでも良かった。一番手近という理由で引っ張り込んだのは、バケツや水おけ、花ばさみやビニール紐が棚に置かれた小部屋。

「あや、め？」

声に当惑を聞きながら、閉まる扉に彼の身体を押しつけるようにしてくちびるを重ねた。右生の目が見開く。驚いてる。それが嬉しくてキスを深める。両手を首っ玉にぶらさげ唇をさらに押しつける。

奪いたかった。もっと。
奥底から湧き上がる熱を全身で伝えて、感じさせたい。

不意に彼が応えた。彩芽の腰も背中も引き寄せられ隙間なく密着する。肌と肌が、伝えようとした熱をそのまま返してくる。押し寄せてくる。彼の放つ熱が手の形で体中を這い、場所を忘れて求めてくる。

キスはとっくにむさぼり合うものへと変わり、息も忘れた。苦しい。Ｔシャツの背中から忍び込んだ彼の指が、素肌をまさぐりブラの後ろをいじっている。胸の先が固くなって触れて欲しいと訴えている。

触れて。
ここで？

うわ、と我に返った。
まずいやばいまずい、何やってんの私。
顔をそむけても彼は動じない。うなじを食は　み耳をかじる。
やだまずい、本気だ。どうしよう。

「ちょ、ゆっ」
「うるさい」
「待ってまっ」
「いいから」

よくない、けど、仕掛けたのはこっちだし。ああほんとにまずい。いつ誰が入ってきてもおかしくない場所なんだってば。大声を出すわけにもいかないし。こら、ブラをはずすな。

もがいていた彩芽は手に握っていたものを思い出した。おぼれる人みたいに両手を差し上げ、ビニール包みをはがす。首筋から胸元へ降りていた彼の口に、強引にそれを押し込んだ。

「なっ、んっ、げほっ、げーっほ」

息を吸い込んだ拍子に喉に詰まらせたらしく、彩芽から手を離し、右生は盛大に咳きこんだ。ぽろっと落ちるキャンディ。

「ご、ごめん、大丈夫？」
「……大丈夫なわけないだろう」

ぎろっとにらみあげた右生は、彩芽の腕をつかんで胸から腰を合わせてきた。ぴったりと。

「ちょっ」
「誘ったのはそっちだぞ、どうしてくれるんだ」

その気になった彼の身体が形になって訴えてくる。鼻先がつく距離で彩芽の頬が赤く染まる。いつもならここで謝り倒すところだけど。

今日の彩芽はひと味違う。

「おあずけ」
「なんだって？」
彼が目をむいたその隙に腕から逃げ出し、扉を半分開ける。

「仕事中よ。続きはあ・と・で」

納得できない顔つきで彼が思い切り口を曲げた。だが時と場所を考えればどうしようもないのはわかりきってる。腹立たしそうに舌打ちしてから、もう一度彩芽をにらんだ。

「逃げたら承知しないからな、覚悟しとけよ」

その目に声音に背筋がぞくっとしても、ここでひるんじゃ女がすたる。
強気とはったりは押し通さなきゃ。甘く、挑戦的に。

「もちろんよ、ダーリン」
「だーりん、だぁ？」

呆れた彼の声は扉で遮った。ここでつかまったら元の木阿弥、三十六計逃げるにしかずだ。再び扉が開く前に、彩芽は全速力で撤退した。


作業場へとび込んだ彩芽がぜいぜいしているのを見て、皆が手を取めきょとんとした。真白が怪しむ。

「なに、どうしたの。気分転換できた？」
「え、あ、はいっ。しっかり」
「……そりゃ良かった。仕事はまだまだ山ほどあるわよ」
「はい！」

注文票を取る手は軽く、口笛を吹いてしまいそうだ。
ちょっとだけ悪女の気分。エネルギーは満タン。
あと？
後は野となれ山となれ、矢でも鉄砲でも持ってこいってのよ。


窓の向こう、止まない雨を透かしながら、彩芽は鼻歌混じりで花ばさみを元気に鳴らした。





恋人と一緒の、離ればなれの、出会ったばかり別れたばかりの。
すべての織姫たちへ。

負けるな。
頑張れ。

恋すれば毎日が、毎晩が七夕。
会えなければ胸は痛んで涙したりもするけれど。
空の彼方でいつだって、星は輝いているから。

勝ち取ろう。
あなたの星を。

あなたの手で。





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