東京という街は面白い。ひとくくりに都会と言われる中に古いものが点在し、生き残っている。銭湯もしかりだ。右生と彩芽が住む部屋の近くにもひとつあった。帰りの遅い平日はなかなか足を向けないのだが。


身体と髪を洗い終えた彩芽は、広い湯船にずっと身を沈めた。思わず「ふわぁ」と声が出る。気持ちよくて。

湯気にぼやけた浴場内はほどほどに込み合っていた。洗い場で体を丸めて洗うお年寄り。シャワーにはしゃぐ子どもを叱るお母さん。おしゃべりに興じているふたりは彩芽とあまり変わらぬ年頃だ。

いいなあと思う。なんてことのない光景を眺めるうちにとげとげしかった気持ちが溶けて後悔がとって代わる。あんなに怒らなきゃよかった。誘って一緒にくればよかった、と。


原因は雨だった。

梅雨の季節に雨が多いのはあたりまえだが困るのが洗濯物だ。乾燥機がないので基本は部屋干しとアイロン、ため込みすぎるとコインランドリーに頼るしかない。不経済だ。

だから今朝、久しぶりの晴れ空に彩芽は喜んだ。天気予報とにらめっこして夕方まで持ちそうだと判断する。右生が早めに帰れる日だ。

「帰ったらすぐ取り込んでね。梅雨の天気は当てにならないから」
「はいはいわかったって」

家事において彩芽がどちらかというと洗濯寄りなのに対して右生は料理寄りだ。早く帰ると夕飯を用意してくれる反面、洗濯ものは忘れがちになる。知ってはいたが。


空模様は午後に向かって次第に悪くなり、彩芽の仕事が一段落したあたりで降り出した。右生はとっくに帰り着いているはずだから大丈夫。心安らかに彩芽も帰途についたのに。

洗濯物はベランダで湿っていた。

あわてて取り込みながらキッチンにいる彼をにらむ。
「言ったじゃない」
「あー悪い。あとでアイロンかけるって。八百屋で完熟トマトが大安売りでさ。冷製パスタ、うまいぞ」

楽しげな声が憎たらしさを煽る。怒ってるのに。
「念押ししたでしょ」
「悪かったって」
「もういいっ」

コインランドリー用の大きなブルーのビニール袋に、湿った洗濯物を荒っぽく詰め込むと、財布と風呂道具、しっかり傘もひっつかんで彩芽は部屋を飛び出した。
「おい」
「銭湯寄ってくるっ」
コインランドリーは銭湯の斜め向かいにある。乾燥機をかける間に銭湯で気分を変えようと思ったのだ。


たくさんの人で揉まれて柔らかくなった湯の感触が彩芽は好きだった。ぷかぷかと浮くように伸ばした両腕をかきよせ、手のひらにすくった湯を映す。

カリカリしてどうするの。雨も右生も彩芽の言うとおりに動くわけじゃない。アイロンかけるよと彼が言えば、ほんとにかけてくれるのはわかっていた。苛立ったのは念押しした言葉を無視されたような気がしたから。そんなつもりはなかったろう。料理に夢中だっただけで。

『完熟トマトが』
子どもみたいにわくわくした顔だった。特に料理好きなわけでもないのに、思いついたら入れこんで作って食べさせたがる。

そう、食べさせたがる。
彩芽に。

湯船から上がった彩芽は絞ったタオルで身体を拭いた。とっくに乾燥機は止まってるはずだ。早く、帰ろう。引き戸をあけると浴室の湯気が雲のように着替え場へと押し広がった。はやる自分の気持ちみたいだと思った。


雨はまだ降っていた。傘を持って出ようとした彩芽の足が止まる。すぐそこに右生が立っていた。大きめのビニール傘をさして、肩から下げた見覚えのある青いビニール袋は膨らんでいる。コインランドリーにも寄ってくれたらしい。

言ってもやめる気のないタバコをのんびりくゆらせる姿。出会ってずいぶん経つのにいつになってもドキドキさせられる。

悔しいなぁ。
でも。

振り返った右生が彩芽をみつける。ジーンズのポケットから取り出した吸い殻入れは彩芽が誕生日に贈ったプレゼントだ。吸いかけを放りこんで。
「迎えにきた」
ごめんとも悪かったとも言わないけれど。

「うん」
うなずいた彩芽は持ってきた傘を手に、彼のビニール傘におさまった。予想していたみたいに口元をゆがめる、その笑い方が。

好き。

「腹へったろ」
「パスタ、食べたい」
「嫌でも食べさせるさ」
「何それ」
彼の腕にぶらさがるようにして彩芽が笑う。


止まない雨はうっとおしいはずなのに、今は嬉しい。
傘の上、跳ねる雫が楽しげにＢＧＭを流していた。



　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　


　　　　　　　　　　　　　　　＜ Entirely rainy result　／　end　＞