花屋は肉体労働だ。

寿命の短い花々と闘う仕事は短期決戦。今日咲き誇る姿こそ届けたいと願って奮闘するから、一日が終わって家にたどり着く頃には疲れ果てる。日によっては足もよろよろ、あとは眠るだけという状況も珍しくない。１２月は年間のピークの山の一つでイブに向かってそういう日が増えるわけだが。


先に帰った右生が、テイクアウトしたスープリゾットを食べ終えた時、ガチャガチャとせわしない鍵音がした。機嫌が良いな。そう思った自分に笑う。一緒に暮らすうちに互いの気分が読めるようになるのは当然だろうが、鍵の音だけで読めるなんてと。

その間にドアは開いて、飛び込んでくる彼女。まるで今から仕事に出かけるみたいなハイテンションだ。

「右生、右生っ、いる？」
「見りゃわかるだろう。おかえり」
「ただいま、あのっ……っぐ」

ここは日本だ。キスで始まりキスで終わるアメリカンな日常はあり得ないが、こうも眼をきらきらさせて飛びついてこられたら、彼氏としてはやっぱりするしかないよな。一日の終わりに元気な彩芽を食べられるとは、贅沢な気分だ。


身を屈めて逃がさぬよう頬を両手ですくいあげるようにして、口の中、歯列の裏まで探り尽くし舐めあげる。いつもならここらで理性がぶっとんでなすがままにされる彩芽だが、今夜に限ってドンドン胸を叩いてきた。なんだよ。

あまりしつこいので仕方なく放したら、真っ赤な顔でさっきより息を切らして抗議される。
「ひっ、とのはなっ、をき、っきなさいよっ」

いつになったらこういうシチュエーションに慣れるやら。一生無理か？　ついもれる笑い。口元を隠して横を向いたら腰に衝撃をくらった。眼をつり上げた彩芽が仕事用のバッグを握りしめている。まずい。両手をあげてホールドアップする。

「わかったわかった、聞くから」
「……ほんと？」
「腹は？　夕飯食ったのか？」
「まだ、だけど」
「スープリゾット温めてやるよ。風呂入ってこい」
「うー、食べ物でごまかすのずるいんだから」

しぶしぶ、だがあっさりと機嫌を直してシャワーに向かう。ひきずらないのは彼女の長所だ。すぐからかう右生にすれば、執念深くないところはありがたい。

ふたつ買ってきたリゾット、残りのひとつを放り込んだレンジのタイマーをかける。明かりがついて回り始めた庫内。バスルームからは水音が元気に聞こえてきた。





「嘘だ」
「なにそれ」
美味しそうにリゾットを食べていた彩芽のスプーンが止まる。疑問形をとばして断定されたのが著しく不満そうだが、右生にすればごく素直な反応だ。

「キングの彼女？　あり得ない」
「なんでよー」
「未知との遭遇だ」
「宇宙人じゃないわよ会ったんだから。それもキングの家で」
「家？」
またも意外な単語を聞いて右生の眉間に縦皺がまた一本。

「ビルの最上階か」
「知ってるの？」
「Man Hallに居たころ何度か」
「そうなの」
「キングが自宅用に何か注文したっていうのか、わざわざ？」
信じられないとばかりに問うとあっさり彩芽は首を振る。

「そうじゃなくてプレゼントだったの」
「何を、誰から」
「エヴァよ。知ってる？」

昼間吸えない分も煙草にいそしんでいた右生は、出てきた名前に深々と息を吸い込んでむせた。盛大に空咳するのが珍しいのだろう、スプーンを持った手を止めて彩芽が好奇心に満ちた顔で右生を見ている。

「知ってるのね」
「Man Hallの常連を知らないわけないだろ」
「彼女の話、聞いたことないのに」
「知り合いだが親しいわけじゃない」
「ほんと？」
いかにも意外そうな響きが込められている。

「エヴァのお目当ては昔々からキングだけさ。それにっ、と」
「それに？」
余計なことを口走ったと後悔する。特に隠すことではないが、説明が面倒くさい。彩芽のひたすらに待ちかまえる様子にあきらめる。

「……遼子とエヴァが並び立つと思うか？」
ずいぶん口にしたことのない名前だった。無意識に居住まいを正す彩芽がおかしくて、苦い。

「Man Hallにはほかにも何人か、いろんな意味でキングを助けてきた常連がいるが、遼子とエヴァが別格かな。俺は遼子がいわば拾ってきてたまたまキングに気に入られた人間だ。遼子に近い分、エヴァとは疎遠だった。もちろんホストとしては接してたが、あくまでも型どおり形ばかりだ。個人的には嫌いじゃなかったけどな」

嫌いではなかったが、自分じゃ手に余るとも思っていた。キングを女にしてさらに１８０度ねじったみたいな？　右生から見たエヴァはそんな感じで、触らずにすむならそれが何よりと距離を保ち続けた相手だ。

「なのになんでおまえは知ってるんだ」
「ブーケに花を届けない週なんてないよ」
「……マジ？」
「マジ。お店のお花はうちじゃないけど、お客さんからブーケ宛にって頼まれるのは日常茶飯事だもん。昼も夜も」
「あちゃあ」
灯台もと暗し、ってのは意味が違うか。それにしてもブーケかよ。

「おまえ、あそこがどんな店か知ってる？」
「キングに聞いてる」
「あ、そう」
「花屋が花を届けるだけだし。客としてはすごく怖いけどね」
「怖いって」
「ああ違う、厳しいひと？」
浮いた腰を落とす右生。なるほどと納得する。

「うちはまだ逆鱗に触れたことないけど。いつだか他の店とバッティングしたことがあって夏の盛りでちょっと萎れてたらもう散々に怒られてた。当たり前だけどこっちまで焦ったよ」

さもありなん。遠目にするだけだったが、キングへの執着はともかく商売人としてのエヴァは百戦錬磨、タフでしたたかで切れる。その分、懐ふところ　に入った相手はとことん守る情の深さも感じていた。深すぎてあのキングすら時に逃げ腰にさせるくらいだ。

「エヴァの注文て」
「ツリー用の木。キングのマンションって天井高いでしょ。室内用としては最高クラスを指定されたの。キングは不在だけど、留守番がいるからって」
「留守番？　なら彼女じゃ」
「だって、住んでるもの。そこに」

心底驚いた。そりゃあ自分だってキングのマンションに短い間居候したこともある。だが女は別だ。あれほどもてる彼が一定の距離以上に近づけた相手を右生は知らない。遼子やエヴァは恋人とはいえないし。

「……どんな？」
「それがねっ」
ようやく興味を示した右生に、スプーンを握りしめた彩芽の口調が熱を帯びる。リゾットは残り半分くらいだ。さっさと食べさせたいんだが、好奇心はいかんともしがたい。

「すっごい若いの。あたしより絶対年下！」
「……それ、やっぱり違うだろ」
「細身でガラス玉みたいな眼して化粧っ気が全然なくて」
「勘違いだって、彼女なんかじゃ」

「でもエヴァが言ってたもの」
「エヴァ？　何をなんて」
聞きながらもさっさと食べろと眼で促すと、あわててすくったリゾットを口に含みながら彩芽は続ける。

「後にも先にも自分を出し抜いたたったひとりだから、丁重によろしくねって」

むうと腕組みして右生は考え込んだ。必ずしもキングの相手だと示唆したわけではない気がするが、どっちにしろエヴァが出し抜かれたと認めるなぞふつうじゃ考えられない。

「ね？　だからきっと」
「キングはいなかったんだろ」
右生の問いにどうやらリゾットをたいらげた彩芽が満足げにホットミルクを抱える。

「うーん、今年の後半はほとんど顔見てないもの。お店の花だってメールかファックス、でなきゃ電話だし」
「なら。結論急ぐこともないさ」
「えー？」
いかに彩芽だろうと納得できないものはしたくない。右生に言わせればキングの彼女は宇宙人か珍獣かのレベルだ。彩芽が呆れた顔になる。

「キングが紹介すると思うの？　これが俺の彼女だ、とかそれこそあり得ないよぉ」
「少なくとも一緒にいるところでも見なきゃ俺は信じないね。奇跡ってのは神様とか天使の領分だ」
言ってしまってから顔をしかめる。お釈迦さまも同レベルだったか。すると彩芽の声が微妙に変わった。

「……まさか、焼き餅やいてないよね？」
「はあ？」
誰に誰が。例によって突拍子もないことを言い出す彩芽に、ぽかんとしてから右生は吹き出した。

「おっ、まえなにっ、を」
「だだだって全然乗り気にならないし否定したそうだし」
「で、おまえが焼き餅焼いてくれるわけだ」
「あっ、あたしじゃなくて右生が」
「忙しすぎて欲求不満か」
「ば、っっっかじゃないのーって、ちょっと、放してよもうー」

あっと言う間に雰囲気が変わるのが恋人同士だ。一日の終わりはできればくっつきたい。いちゃついている頭の片隅でしかし、右生は考えていた。

そりゃあキングにだって彼女がいても不思議はない。いやいない方が不自然だろう。でも彩芽より年下の？　すっぴんの？　だめだイメージできない。やっぱり違うんじゃないのか？

焼き餅なわけはないが、相当気になるのは確かだ。おかげで彩芽が寝付いたあとも右生にはなかなか眠りが訪れなかった。





クリスマスがピークとはいえ、年末年始も決してヒマじゃない。あっというまに大晦日だった。Man Hallの町内では毎年カウントダウンパーティーが催される。ブルフェスの実行委員会が主催だ。ホスト時代に右生も顔を出したことがある。

今年、彩芽をつれていこうと思ったのはあまりの忙しさで正月準備などする余裕がなかったせいもあるが、下手に顔見知りばかりよりもかえってふたりで過ごせると思ったから。来るもの拒まずのパーティーは参加費さえ払えば飛び入りウェルカムなのもいい。


入場受付で頭のはげた老人に注視された。あれは確か珍品堂の主だったか。知り合いじゃないが町内じゃ有名人だ。まさかエヴァにばったりってことはないよな。なるべくおとなしくしていようと肝に銘じる。

大晦日だというのに会場入りしたらカウントダウンまで一時間もなかった。お互い働きすぎだよなと苦笑いしながら、山と用意されている飲み物からビールを取って彩芽に渡してやる。外は冷えているというのに熱気でいっぱいの場内。冷たいビールがうまいのも彩芽の疲れた顔が生気を取り戻すのもどちらも大歓迎だ。

「っいしいーっ」
「なんとか今年も終わるな」
「一年て早いわね」

ごきげんな彩芽だが空きっ腹に酒ではろくなことになるまい。料理を山ほど盛った皿を押しつけると、待ってましたとばかり嬉しそうに食べ始めた。餌付けばかりしてる自分に疑問もないのがおかしかった。

空のグラスをウィスキーに変えた右生は彩芽の隣で、時々料理をつまみながら顔見知りと言葉を交わし流れる音楽を楽しんだ。こういうにぎやかな年越しも悪くない。さてぼちぼちデザートタイムか。

右生の読み通り、腹がふくれた彩芽は、向こうに見えるスイーツのテーブルへ物欲しげに眼を走らせた。

「取ってきてやるよ」
「自分で行くから」
「待ってろって、迷子になるぞ」
反論しないのは反論できないからだ。なだめるように付け加える。
「カウントダウン前にはぐれたら悲惨だろ」

しぶしぶ同意した彩芽を残し、人波を縫っていったら思いがけない人と会った。
「右生じゃないか。珍しいなこんなところで」
「キング？」

半年ぶりか。こないだはそう、七夕の夜だった。彩芽といる時に限って、キングに出くわすのはどういうわけだろう。

「長く留守だったって聞いてる」
「ああ。戻ったばかりだ。彩芽は？」
「あっちに……なんだよそれ」

そりゃあ不思議だ。右手のスピリッツグラスはいつもどおりとしても、左手にはちょうど右生が取りに行こうとしていたスイーツを何種類もトレーに乗せている。キングとスイーツ？　それでもおしゃれに見えるのが彼だが。

「エサ、だな」
「エサ？」
「迷子を誘い出すための、さ」
キングがウィンクする。サングラス越しでもわかる鮮やかさ。
「彩芽にひとつ持っていけ」

勧められるままにチョコスフレを手にして行きかけたものの、やっぱり聞こうとふりかえった。
「キング、あの……なんだよ」

すでに影も形もなかった。いくら素早いからってどうなんだ。ぶつぶつ言いながら彩芽のところへ戻ったら、こっちはこっちで興奮状態。
「右生聞いて、いたのよ。来てるの」
「誰が」
「キングの彼女よ、ショーコさん。さっき見かけたの！」
まじかよとつぶやく。

「俺も会った。キングに」
「ほんと？　一緒にいた？」
「いや」
首をふってスイーツを渡しながら思い出す。エサで誘い出す迷子がつまり？　しっかりスフレを平らげつつも彩芽のテンションは下がらない。

「やっぱりそうだよ、間違いないって」
「そうか？」
「あーもう右生ったら淡泊」
「んなこと言ったってキングだぜ」

言ってるうちに時計は進んで、カウントダウンを呼びかける声が聞こえ始めた。
『さあぼちぼちスタンバイしないと。大事な人はそばにいるかい？　はぐれて新年をむかえるなんて最悪な年の始めにならないように』

彩芽があわてる。
「ええ？　もう？」
「ほら、皿こっち。グラスグラス」

シャンパンを手にして互いを隣に待ちかまえるカウントダウン。周囲には相手がみつからない片割れが口々に叫んでいる。
「どこだよー」
「やだ、始まっちゃうーっ」
照明も暗くなり始め、人波は影絵になりつつあった。その時。

「キング！」

右生と彩芽がふたりしてふりむくと、背の高い人影に細身の影がとびついたところだった。こんなに騒がしいのになぜか届くキングの低い声。甘い。最高級のチョコレートを思わせる糖度だ。

「動くなって言ったろう」
「だって美味しそうだったんだもん」
「これか」
「そう、これ！」
「ほら」

キングがスイーツをスプーンですくって差し出す、灯りをバックの影絵。ぱくりと食べた彼女の横顔とはしゃいだ声。

「おいしいっ、キングも食べたら？」
『……１６、１５、１４…』
カウントダウンもお構いなしにキングがささやく。
「どれ」

あっさり重なった唇。間違いなくキングと、彩芽より年下に見える小柄な女の子だった。まじか。見なけりゃ信じない、けど、見ても信じられないのが右生の本音。

「ほらほらほらほらぁ」
つかんだ腕をゆさぶりながら、耳元で彩芽にうるさいくらい念押しされても、やっぱり右生は現実味が薄い。

カウントダウンは残りわずか。この際あっちはおいといて。
「俺たちも」
「へ？　うわっ、んんっ」

『……４、３、２……』

うわってなんだよとつっこむ時間はなかった。一年がキスで終わり、新年がキスで始まる。うん、悪くないんじゃないか。ちらっと横目でみればキングもまだキスをやめない。負けるものかと妙な闘争心がわく。


「Ａ　ＨＡＰＰＹ　ＮＥＷ　ＹＥＡＲ！」


歓声とクラッカーと乾杯の騒ぎの中、キスで彩芽は気絶寸前。笑いながら右生は思う。奇跡の目撃で始まる一年か。彩芽と一緒にいることが自分にとっては何よりの奇跡だけどな。

そう思えば奇跡は結構、ありふれたささやかなものかもしれない。





誰が置いたのか白いテーブルクロスの上にガラスの天使がひとつ。
大きな奇跡も小さな奇跡も平等に祝福していた。





　　　　　　　　　　　　　　





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜ Happy New Year Miracle　　／　end　＞