やけに水が冷たい。冷えてるのは指先か。
仕事中にもかかわらず彩芽の口からため息が漏れた。

休みがなかなか取れないのは今に始まったことじゃないのに、この冷えは疲れのせいだろうか、それとも。ふと思い出してカレンダーを見上げた。頭の中でカウントしてみる。やっぱりそろそろだ。女性にとっては原罪とも祝福ともいえる、生理。

彩芽は日頃重い方ではないが、数ヶ月に一度ものすごく辛いことがある。強まってくる頭痛はその前触れかもしれない。花ばさみを力一杯鳴らすと、細い首を切りおとすみたいに茎が落ちた。いやな気分だった。

休憩をもらった彩芽はロッカーからポーチを取ってくると洗面所へ駆け込んだ。ビンゴだ。来るべきものが予定通りなのは喜ばしいが今はそんな気分じゃない。指先の冷えが強まる。なんとか今日を乗り切らなくちゃ。

個室の便座の上で眉をしかめながら彩芽は分厚いパッケージを破いた。機能性と薄さ、吸収性を誇示するメーカーも多いが、彩芽に言わせると布団と同じで分厚さに安心感を覚えるユーザーも少なくないと思う。学生時代から好みは変わっていない。保守的なのか頑固なのか、きっとどっちもだ。

同じようにどれだけ頭痛がしても、熱がないかぎり薬は飲まないことにしている。頑固と言うより融通が利かないだけかもしれないが、体力勝負はいつものことだ。ポーチのジッパーをしめ頬をはたいて気合いを入れた。


いつもよりずっと早い時間に帰り着いたのは、顔色の悪さを皆に見咎められ、ボスたる真白にさっさと帰れと言い渡されたためだ。ありがたさと申し訳なさが押しくらまんじゅうしている。

まだ部屋は暗かった。灯りをつけると散らかり気味の部屋。潔癖症でもないくせに、調子が悪いときは細かなことが気になる。ベッドに直行のつもりで手を出してしまったのを、彩芽はすぐに後悔した。





仕事は繁盛することに越したことはないが、忙しすぎる仕事はストレスとミスを生む。気力にも体力にも自信がある右生でもそろそろきつい。そんな気持ちが通じたかのようにやっと予約の切れ目が見えた。天の助けとはこのことだ。九時前に帰れるのは何日ぶりだろう。

帰り際に出くわした真白が彩芽は帰したからと珍しいことを言った。
「見るからに貧血っぽかったわ」

言わんとする意味はすぐわかった。一緒に住めば相手の体調やサイクルも自ずとわかる。同時に思い出した。掃除当番なのに今週はまだ手もつけてないこと。彩芽はもう寝ただろうか。この時間から掃除機をかけるのはひんしゅくものか。

思案しながら軽い足取りで帰ってきた右生は、部屋の中から聞こえてくる音に気づいた。聞き覚えのあるモーター音が掃除機だと気づいて、右生の機嫌は急降下した。


一緒に暮らすうちにできたルールは、紙に書いて貼ってあるわけでも罰金があるわけでもないが、試行錯誤の結果だから合理的で公平だ。引き受けた家事には責任を持ち、相手の家事には手を出さないのもそのひとつ。

片方に負担をかけすぎないため、と言いたいところだが実際はなんでも手を出しすぎる彩芽を止めるのが目的だった。忙しさも寝る時間もどっこいどっこいなのに、気になると真夜中でも片づけ始める。右生が当番でもいいじゃんと手を出すので何度か切れた。

「家事全部押しつけられたらどうするんだ。あとできつい思いするのはそっちだぞ」
散々喧嘩して、話し合ったというのに。

「やるなって言ってるだろうが！」

帰るなり仁王立ちで怒鳴りつけられて、彩芽はギョッと固まった。うしろめたさでおどおどして見える。

「ごめん、でもほら、今日早かったし」
「俺も早かった」
「じゃ、ちょうどよかったじゃん。ね、一緒に」
「ごまかすな！」
寝不足と一日中吸収していたトラブルやらもめ事やら苛立ちが、一瞬の怒りを導火線にして右生の中で弾けていく。

「その、右生がちゃんとやるのはわかってるけど、疲れてるし」
「疲れてるのはおまえの方だろ。具合悪いって？」
「あ、えっと」
「押してまでやらなきゃならないのか？　いい加減俺へのあてつけかと思うぞ」
「そんなつもりじゃ」
「そんな風に思わせてるんだよ。今にも倒れそうな顔色のくせして！」

さらに青くなった彩芽から掃除機を奪い取ってソファに放り投げる。
「生理がきついんだろ、さっさと寝ちまえ！」
もっと怒鳴りつけそうだ。きびすを返した右生は玄関に向かった。

背中に何かがぶつかって落ちたのはドアが閉まる寸前だった。腹立ち紛れの勢いは右生の怒りに同調していたが、バンと大きく響いた音で冷静さが戻ってくる。

あーあ、やっちまった。

足下に落ちていたものを拾い上げると、すっかり冷えてしまったインスタントカイロで。右生の後悔はさらに大きくなった。





部屋の中では彩芽が床にへたりこんでいた。崩れるようにその場に丸くなる。腹痛はやまないし身体がだるい。朝夕は冷えるようになってきてひんやりしたフローリングに頬を当てる。

ぱっと心に沸き上がった怒りはもう消えていた。右生の行動はおおむね、彩芽を気遣うからこそだ。わかっているが、面と向かって生理を指摘されるのはどうしようもなく恥ずかしい。いつもなら遠回しにしてくれる右生も怒っていると露骨で、握っていたカイロをぶつけてしまった。

あれしかなかったのに。買って帰ればよかったと後悔する。生理中は手足が冷えてしょうがないのだ。自業自得か。同じことを何度繰り返すんだろう。右生じゃなくても怒るよね。

後悔はあっても、不安はなかった。


べたべたに惚れあった恋人同士でも、ふたりの人間が一緒に住めばもめ事は起きる。。生きていくためには仕事が要るし、情熱を感じる仕事だったら時間がとられるし。

ともに生活することは互いのあらゆる面、いい面も悪い面もさらけ出すことだ。気分の上下に体調の上下。時には喧嘩だって避けられない。幾度か衝突や小競り合いを経て、互いの不機嫌をうまくやり過ごす術を見つけたつもりだったが、頑固で融通の利かない自分がいまいましい。

右生はきっとすぐに帰ってくる。もう動くのも面倒だしこのまま待ってようかな。ドアが開いたら起きて謝って、それから。

考えながら彩芽は眠り込んでいた。


「……ベッドで寝ろよ……」

ゆらりと身体が持ち上がるのを感じた。腕も胸も知っているから安心してすりよる。スプリングがギシッと鳴った。毛布に包まれた上、懐に差し込まれた何かが暖かくてうれしくなった。胸の温みと背中を包む熱で彩芽は深い眠りに誘われた。





翌朝、目覚めたら昼過ぎだった。あわてふためいてベッドを飛び出した彩芽はキッチンのテーブルにメモをみつけた。

『真白さんに連絡して有休もらった。しっかり休め』

ぼんやりテーブルを見下ろしてから、自分が湯たんぽを抱いているのに気づく。昔懐かしい形。小さな人形ぐらいの大きさでベロア生地のおしゃれなカバーがかかっている。どこから？　どうして？　聞くまでもない。冷めているのにほんのりした温み。探してきた彼の気持ちが何より彩芽を温めてくれる。


電気ポットにお湯がいっぱいわかしてあった。茶こしのついた蓋付きのカップに茶葉を大盛り入れて熱湯を注ぐ。休みの日ならではの贅沢だ。腹痛はあるが頭痛はおさまっている。温かなミルクティーがお腹になだれこむ悦び。メモにはもう一行あった。

『掃除は今朝やったからな！』

エクスクラメーションマークを誇示するように、床はつやつや、キッチンはぴかぴか。癪に障る気もするけれど。

「……あたしって幸せ者？」

カップを手に目を遣った先、リビングの座卓に山と積まれているインスタントカイロがひとりごとのだめ押しのようで、吹き出した彩芽の笑い声はいつまでも途切れなかった。





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