買い物帰りに寄った靴屋で彩芽は動かなくなってしまった。
降らないうちに帰れるだろうかと、右生は店先から空を仰ぐ。


梅雨の季節だ。雨をたっぷりため込んだ雲の色は重く、いつ降り出してもおかしくないが降らずに午後までもっている。

掃除洗濯片づけ、休みの日のスケジュールを順調にこなしてから買い出しに出たふたり。日用雑貨とインスタントや冷凍食品を買い込んでの帰り道に彩芽が靴屋に寄ったのは仕事用の靴を求めてだ。

水仕事が基本だから、足下は濡れること前提だ。自らそそっかしいという自覚がある上、周囲からもあわて者との認定を受けている彩芽の仕事靴はスニーカーと決まっている。今、履いているのがボロボロになってしまったので、安くても滑らない、しっかりしたスニーカーを買いに来たはずだった。


一緒に暮らすようになって知ったことのひとつ。彩芽は時々ひと目惚れをする。男にだったらとんでもないが幸いそうではない。彼女は物に惚れるのだ。こないだはティーセットだったなと右生は思い返す。

勝手に送りつけられてくるカタログをみていたら、陶磁器で有名な窯元のティーセットが載っていて、やられてしまったのだ。ためつすがめつ眺め、平面のページをすかして斜めから見ようとするので笑ってしまった。何日かしてデパートで本物をみたときの興奮と言ったらなかった。だが買ってはいない。

「高すぎるもの」

確かに安くはない。カップとソーサー、ポットで６けたの数字だった。そのあたりが妙に冷静なところでもある。

「いいの。いつかの夢リストに乗せとくから」

全部は教えてくれなかったが、そのリストにはかなりの数の品物が名を連ねているとか。必ずしも高いものばかりじゃないようだが。

「なくても困らないものばっかだもん。でもいつかって思うと働く励みよ」

そう言って笑う彼女はいい表情だったが、右生にするとストイック過ぎないかとも思ったものだ。


そして今日。
どうやらまたリストが増えそうだ。

「あーやーめ？」
「ごめん待って。うう、だって。でも」

目的のスニーカーを手に持ったまま、今日のひと目惚れ相手はハイヒールだった。夏らしい白、というよりパール。オープントゥで脇が網目に透けていて、なんといってもヒールだ。細くて高くてそこだけ深い青でラメが入っていた。正面からは見えないが横から見ると靴全体が別の趣になる。

「あー、可愛い。可愛いけど」

スニーカーをぶら下げて行ったり来たり。何遍繰り返しているのやら。口をとがらせ目を輝かせ眉間に皺をよせ、忙しいったらない。

「買えば」
無駄と知りつつ右生が薦める。
「知ってるくせに。今月は出費が多いの」

六月といえばジューンブライド。忙しいのはありがたいが、花屋に勤める人でも思うことは同じで、スタッフにも結婚する人が何人かいるらしい。式に出席するほどではないが二次会のお誘いが二つ、祝い金の徴収もあった。

「そんなに高くないじゃん」

ティーポットの六桁に比べれば一万数千円はごく一般的、ノーマルな値段と思うが。

「予定外の出費としては多いわよ」
「贅沢してるわけじゃなし」
「誘惑しないでー」
耳をふさごうとして、持ったままのスニーカーを見る。

「やっぱりだめ。贅沢品だわ。こっちは必需品なんだから」

口と目が別のことを言ってるのは本人も承知なのだろう。だがこういうとき潔いのが彩芽だ。くるりとハイヒールに背を向けた。

「いいのか」
「今度にする」

への字に曲げた口がいかにもやせ我慢で、しょうがない奴と右生は肩をすくめた。



先に家に帰りついた彩芽がベランダをのぞくと雨が降り出したところだった。

「セーフ」

あわてて洗濯物をとりこむ。一日曇っていたからまだ湿っている。アイロンだわとぼやきながらとりあえず部屋干しだ。次第に強くなる雨足。右生ったらどこまで行ったんだろうと心配になった。

帰り道で買い忘れたものがあったからと引き返して行った彼。なんだろう、たばこかな。吸いすぎだっていつも言ってるのに。

買ってきた日用品を所定の場所にしまい終えると、炊飯器が音を立て始めた。出かける前に仕掛けて時間予約していたのだ。晩ご飯は焼き魚と奮発したお豆腐屋さんのおいしいお豆腐。冷蔵庫にしまおうとして、その白に手が止まる。

お豆腐でハイヒールを思い出すなんてどうかしてる。顔をしかめた彩芽は食材を冷蔵庫の上下にしまいこむと、クローゼットへ走った。


真新しいブルーのチュニック。こないだバーゲンで衝動買いしたものだ。ふたつの二次会はこれに手持ちのスカートかレギンスをあわせようと思う。ハイヒールまで買ったら贅沢よねと未練がましく自分に言い聞かせる。

「帰ったぞ」

右生の声がした。あわててリビングへ戻った彩芽は彼の濡れた髪をみて、今度はバスルームへ走った。

「とうとう降り出したね」
「ああ、サンキュ」

タオルを受け取った右生はしかし、自分そっちのけで持って帰ったビニール袋の滴を拭いている。見覚えがある。さっき自分も持ち帰った同じ袋。

「右生。それ」
まさかと思ったらまさかだった。
「履いてみろよ」

巾着型の袋から取り出した箱の中。さっきあきらめた白いハイヒール。青いかかとに目を奪われる。

「どうして」
「欲しかったんだろ」
「いいって言ったのに」
「おまえは出費が多いだろうけど、俺はそうでもないからさ。あの新しい服に似合うぜ」
「知ってたの」
右生があきれ顔になる。

「クローゼットは一つなのに、見えないとでも思ってたのか」
「うう」

どうしてこう、一から十までお見通しなんだろう。悔しいし申し訳ないし。でも一番大きな気持ちはやっぱり。

「……うれしい」
「いいから履いてみろって」
「うんっ」

いつもより視界が高くなる。少し右生に近づける感覚は背筋が伸びて誇らしさにも似ている。

「いいな」
「ほんと？」
「今度」
右生がニヤッと笑った。

「デートしようぜ、あれ着てそれ履いて。そしたら代金相殺。どうだ？」
「バカ」

最初はな　っから返させる気なんかないくせに。さらりとした心遣いが彼らしい。彩芽はリビングのフローリングを三歩、いつもより近い目線で近寄ると、彼の首っ玉に抱きついた。耳元でささやく。

「ありがとう」
「どういたしまして。先払いならキスで」
「もちろん」

腰に回る手に背中を預けて顔を傾ける。
キスは甘く深く。


彩芽の足もと。青いヒールはまるで海の中のガラス玉、彩芽の心を映したようにキラキラきらめいていた。





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