熱帯夜が続いている。

夜になっても一向に下がらない気温はイライラの元だが、夜道をコンビニに向かう彩芽がふぅとついた吐息は、暑さのせいではなかった。



仕事が終わって帰ってみると、右生の機嫌がよくなかった。明日は久しぶりのふたりそろっての休みなのに。嫌になるくらい暑い今年の夏。いつもなら翌日の相談をしながら風呂上がりにビールをぐいっと一杯、のど越し最高、なんだけど。話しかけても「ああ」とか「うん」とかばかりで会話は成り立たない。ぶつ切りのような返事に困り果て、とうとう彩芽は一時退却することにした。

「ちょっとコンビニ行ってくるね」

怒っているわけじゃないから穏やかに右生の背中に声をかけ、財布と携帯だけ持ってサンダルをひっかけ出てきたわけだ。それにしても暑い。こうなるといろんな意味でコンビニは都会のオアシスだなんて思う。真夜中でも用がなくてもなんとなく訪れることができる場所。


自動ドアが開くや流れ出てくる冷気にホッとする。「いらっしゃいませ」という律儀な挨拶を聞き流し彩芽はとりあえず雑誌コーナーへ向かった。立ち読みにうるさいところもあるけれど、ここはそうでもない。買おうと思っていたファッション雑誌を手に取る。読んでるようで実は読んでない。思考は置いてきた右生に流れてしまう。

たぶん、仕事で何かあったんだろう。何かあるとすぐ顔にも態度にも出る彩芽に比べ、右生はあまり出さないのでわかりづらい。これまでもこういうことは何度かあった。機嫌が悪いといっても彩芽にあたるわけではなく、いつもより無口に無愛想になるくらいだが、ふたりしかいないのだからどうしたって余波を食らう。なんとなくやり過ごすが、休み前はできれば勘弁してほしいなと正直思う。

見てもなかった雑誌をぱたんと閉じて戻し、ぶらぶらとスナック菓子を見て歩く。新発売とか限定発売をチェックしながらまた考える。

じゃあ機嫌が悪いときもがんばって機嫌良くしてほしいわけ？　それも変よね？　だって一緒に暮らしてるんだもの。笑ったり怒ったり、泣くことはないか右生は、でもそういう感情の起伏を自分のために我慢させるなんておかしいよね。うん、おかしい。


ついビールを眺める。最近新商品が出ないなぁ。発泡酒は安くてありがたいけど、ぐっと飲みたいときはしっかり麦芽が欲しい。そうよ、自分に自分の気持ちがあるように、右生には右生の気持ちがあるんだから。

だったらどうする？

彩芽は自分がレジ前のコーナーをにらんでいることに気づいた。そこにあるのは夏らしい、夏だからこその。

「よしゲット！」

レジへ向かう彩芽は生き生きした顔をしていた。





彩芽の声にもう遅いぞという返事は追いつかなかった。いつもなら一緒に行っただろう。閉まったドアに右生は舌打ちした。

仕事をしていればどうしてもいろいろある。数えたらキリがない。自分はそういうストレスには強い方だと思っているが、些細なことがまとめて起きる運の悪い日というのがある。注文の見落としや入力ミスに連絡ミス、エスコートスタッフのドタキャンやらもめ事やら、あげく届けたあとのクレームまで。

チリも積もれば山となる。昔の人はよくいったものだ。特に自分が何をしたわけでもないのに疲労感がどっぷりだと無口になる。他に対するのと違ってあからさまに出るあたり、彼女には甘えてると思う。彩芽はこんなとき決して怒らないが、所在なくさせてしまうのは確かだ。

いいかげんにしないとな。
迎えに行くか。


右生が重い腰をあげようとしたちょうどその時、当人が玄関から飛び込んできた。勢いに押される。

「右生！」
「っ、んだよ」
「憂さ晴らし、したいでしょ」

藪から棒が断定の上、図星を突いている。こういうときの彩芽はほんとに憎たらしい。

「だったらどうなんだよ」
「行こう」
「どこへ」

いたずらっぽくにやっと笑う。こういう顔をするとほんとに……畜生だ。

「忘れたの？　あたし、憂さ晴らしの名人なんだよ」

憂さ晴らしという言葉に昔がオーバーラップする。彼女が突きだしてきたのはコンビニの白い袋からはみだすくらいの、手花火を色々詰め合わせた大袋だった。



狭いベランダでは無理だし公園等は花火を禁じているところが大半だ。というわけで少し遠いが河原まで行くことになった。バイクではなく、買って間もない自転車で。せっかく風を切っても生温くていまいちだが、荷台に横乗りした彩芽は大きなビニール袋を担ぎバケツを持って鼻歌だ。

「俺達怪しくないか、夜中に」
「なにー？」
右生の背中に彩芽が叫ぶ。

「おまわりさんに呼び止められそうじゃん」
「そしたら一緒に花火どうですかってー」
「ぷはっ、その気になりそうだな」
「でしょでしょー」

飲んでもないのになんでこんなにご機嫌なんだか。機嫌といえば。気づけば自分の不機嫌は吹っ飛ばされてしまっている。まだおすすめの憂さ晴らしは始めてもいないのに。

「ゆうゆうゆうってば、ひだり、ハンドル左ーっ」
「怒鳴るなってー」

耳元で叫ぶ彩芽にわめき返しながら自転車のハンドルをよっこらしょと切る。その間も笑いが漏れてしまう。ほんと、こいつは。


なんとか職務質問されることなく河原までたどりついた。人気ひとけ　などないと思っていたが、あちこちで似たような輩がいるらしくホタルみたいに明かりが点々とある。みんな暑さから逃げているのだろうか。大きな懐中電灯を頼りに水辺まで近づくと、彩芽は早速バケツを取り出した。

「水、お願い」
「すぐそこじゃん」
「いいから」
「へえへえ」

ブリキのバケツが大小ふたつ。大きいバケツに水を汲んだ右生が戻ると、彩芽はもってきたろうそくに火をつけ、小さいバケツの底にたらしたロウでそれを固定させていた。なるほど風よけにもなるし安全だ。慣れたもんだなと感心する右生に、花火の袋が差し出される。

「どれにする？」

おまえがいい、なんて言ったらはたかれるか。
仕方なくつかんだのは、ススキ花火だった。


闇を恐れるのが生き物としての本能なら、闇に明かりを求めるのも本能だろう。闇に咲く火の花。人はその美しさを愛でるとともに、安堵し喜んでいるのだと思う。

ススキの穂のように長い火花が流れ落ちるススキ花火。パチパチと火花を散らすスパーク花火。途中で火花の色が変わっていく変色花火。蛇花火にネズミ花火。ロケット花火に吹き出し花火。それからもちろん。

「線香花火ってどうしてこんなに綺麗なんだろうね」

はしゃいだ彩芽の声も今だけ微かだ。パチパチパチパチ、電波を飛ばしながら線香花火の先が滴のように赤く丸く潤んでいく。黙り込んだと思ったらぽとり落ちてじゅっと消えた。

「あぁ寂しくなっちゃう。だめだめ」
彩芽はあわてて花火の包みに飛びついた。

「まだやるのか」
「もうちょっとぉー、って忘れてた」

手に花火を持ったままで荷物を探った彩芽は、いつのまに入れたのか缶ビールを取り出した。放り投げられあわててつかむ。

「おみやげー」
「……サンキュ」

ナイスな彼女だと思うのは何度目かわからないし、きっとこれからも数え切れない。缶ビールはどうやったのかまだ冷えていて、のど越しが最高だった。思わず満足のため息が出る。仰ぐ空には月。微かに星。

憂さってなんだったっけ。

「ねえ、見てー」
視線を投げたら彼女が呼んでいた。花火で。

Ｙ・Ｏ・Ｕ


ススキのように尾の長い火で、彩芽が宙に文字を書く。

Ｙ・Ｏ・Ｕ


「右生」　と。
「あなた」　と。


それから。

ＬＯＶＥ・ＹＯＵ


「愛してる」　と。


全く。いつもならとことん啼かせないと言わない言葉を、こんな時こんな場所でするりと言うあたりが、侮れない女だ。

飲み干した缶ビールを置いて彼女へと突進する。大股で十歩。ちょうど火花が燃え尽きた瞬間につかまえて、抱きしめる。


「……聞こえた？」
「あんなでかい文字で大胆な告白だな」
「鬱な彼氏に大盤振る舞い」
「優しい彼女で幸せ者だね」

「でしょ。憂さ晴れた？」
「とっくに。感謝感激」
「じゃあ感謝を形にしません？」
「もちろん」

闇だった。でも恐れはなかった。熱い身体を抱きしめて温かな唇をむさぼっていたら、突然、近くで吹き上げ花火が派手にあがった。離れた唇の間から嘆声が漏れる。静まったあと彩芽がつぶやいた。

「ね」
「うん？」
「……ビールが飲みたいーっ」

ぶっと吹き出した右生を置き去りにして、彩芽は自分用のビールを取りに駆けだした。

夜が更けたというのに蒸し暑さは相変わらず不快指数はきっと高い。まだまだ仕事も忙しくストレスはまた溜まるだろう。でも。

彼女がいれば恐るるに足らず、か。
闇に煌めく火花のような心意気。

いとしい女。


「もう一本いるー？」
「おう」
手を振る彩芽へと、素足にサンダルで右生はゆっくり歩き出す。


ぱんと、どこかでまた花火が上がった。





　　　　　　　　　　　　　　　　





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜ Love　You　／　end　＞