結納を無事に終えた、翌月曜だった。

すっきりした目覚めで朝食を終え、出勤の支度をしていた丈の眼が、何気なく見たカレンダーに釘付けになった。過ぎ去った１４の数字。ホワイトデーという文字がやけに大きく見える。

「しまった。忘れてた」

ここしばらく仕事以外の意識は、結納前に起きたトラブルに全て注がれていたため、他のことを考える余裕など皆目なかった。忘れていたのは仕方ないし、それを怒る美羽でもない。美羽も絶対忘れていると確信はあるのだが。

「何もしないってわけにも」

窮地においても冷静沈着と高く評価される丈だが、さすがに腕組みしてうんうんと遅刻寸前まで唸り続けても何一つ思いつかず。とにかく帰りに近くのデパートに飛んでいこう。ありきたりな解決策を胸に出勤した丈だったが、さらなる窮地が待っていた。





ランチタイムの社員食堂は大混雑だ。ここの社食は社外にも評判で、客先の社員や訪問者が紛れ込むことも多い。美羽は総務の同僚たちと一角でランチを終えようとしていた。今日選んだのはヘルシースープパスタ。野菜たっぷりのブイヨンスープがかかったパスタに根菜サラダとデザートにコーヒー。この充実ぶりは確かに誇れる。自ずと会話も弾む。

「結納だったんですか？」
「えーっと、はい」

つい口がすべってしまった美羽に、周囲は即座に食いついた。丈の人気は美羽との仲がオープンになっても一向に引かず、むしろ彼女ができたことでさらに上がっているかもよ、といったのは葵だったか。
『人のものになると、余計にそそられたりするのよね』
危険な意見だと思ったが、この勢いは確かにそんな感じだ。


「いいなあ」
「うらやましい」
「亀沢さんですものね」
「セクシーだし大人だし落ち着いてるし」

そうかしら。そうかもしれない。でも？　そういうことにしておこう。曖昧に笑ってコーヒーを手にした美羽に周りはさらに止まらない。

「ホワイトデーもきっとすごかったでしょう？」
「亀沢さんならお返しも凝ってますよね」
「倍？　百倍？　千倍とか」

言われて気づく。

「ホワイトデー？」
「ええ」
「……もらってないわそういえば」

固まった周囲をよそに本人は至ってのんきだ。三月頭からお互いそれどころじゃなかった。丈さんだって忘れるわよねとひとりごちる。

別に忘れてしまっても構わないんだけど、行事はきっちりの人だから今頃思い出して企んでいそうだ。千倍かあ。千倍はちょっと大きすぎるんじゃないかしら。そんなに大きなキャンディが第一あるかどうか。ペロペロキャンディーでも顔より大きくなっちゃいそう。

ホワイトデーと言われてまずキャンディを思い出し、倍と言われると大きさに直結するのが美羽だ。千倍の巨大キャンディを思い浮かべ、どうやってなめつくすんだろうと考えこんだ。ちょっと、かなり？　大変そう。

眉根を寄せた美羽の心中について、全く違う予想で沈黙する同僚たち。前に座ったひとりの視線が美羽を通り越して驚きに変わった。


「亀沢さん」
「は？」
振り向く前に聞こえた大声。
「美羽！　いるのか！」
「はいっ、……え？」

ぴょんと飛び上がって振り向く美羽の、目の前に丈がすっとんできた。こんなに人が多いのにと思うが、いつにない大声が衆目を集めて人垣も割れる。モーゼの十戒みたい。相変わらず美羽の思考は事態に左右されない。

「丈さん、どうしたの」
「悪い。午後から出張でしばらく帰れない」
「はい？」
「なんで、気は心ってことで」
「はあ」
夫婦は似るっていうけど恋人も似るのね。しゃべり方がまるで私だわ。首を傾げる美羽に丈が押しつけたのはまさかの。

「ペロペロキャンディー？」
「ジャイアントうずまきセット。売れ残りだがこれでも五つ回ったんだぞ。昼も食わずに」
「五つ？」
「コンビニとスーパーとお菓子屋」
「「「ええー！？」」」

美羽以外の女子社員から驚きやら尊敬やら非難やら、まとめて声があがったが丈は美羽しかみていない。両手を合わせて愛しの巫女さんを拝む。
「悪い。来年まとめて返すから。とりあえず」

丈と、握らされたジャイアントキャンデーを見比べ絶句していた美羽は、突然唇をふさがれて仰天した。

「……っ！」
「「「きゃーっ！！！」」」
今度は男女とりまぜての興奮とひやかしの大合唱だ。なんたって公衆の面前。漫画なら『ぶっちゅ』と擬音がくっつきそうな熱くてふかーいキスで、眼を剥いた美羽は硬直状態。

ぐるりと内側まで舌でなぞられ、びくりと震えたところでキスは終了。だが歓声と悲鳴は一向に止まず。
「きゃあああ」
「うそーっ」
「マジ？」
「やるぅー」

意にも介さず恋人は美羽の唇を親指でぬぐう。
「というわけで心もたっぷり。あとでメールする。やばっ時間。じゃな！」

つむじ風のように丈は去った。気づけば人だかりの真ん中、ペロペロキャンディーを握りしめて注視を浴びる自分。

嘘。

顔を強ばらせ後じさりしつつ笑みを取り繕った美羽は、くるりダッシュでその場から逃げ出した。

「あ」
「白兎さーん」
「逃げちゃった。そりゃそうか」
「……やっぱり巫女ね」
「亀沢さんがめろめろだ」
「いいなあ」
「ねえ」

ふたりの熱に圧倒された野次馬たちは、やっかみ半分羨望半分で申し合わせたようにうなずき合ったが、五分前の音楽が流れ出すとそそくさと散っていった。

美羽はというと終業時間までひたすら仕事に没頭することで、周囲の意味深長な視線を無理矢理シャットアウトしたのだった。



その夜。いくら送ってもメールが返ってこなくて出張先で焦りまくる丈。一方美羽はというと、人目をはばからぬキスに怒るべきか、昼食抜きで走り回った彼に礼を言うべきか。片手に携帯、片手にキャンデーを持って歩いては立ち止まり、悩んでは歩くの繰り返し。温かくなったせいか座布団から首を出したカメをみつけると、カメ相手に切々と状況を訴え意見を求めたのだった。


ジャイアントうずまきセットは丈が出張から帰る前に綺麗さっぱり食べ尽くされた。おまけに、小学校以来の虫歯で歯医者に通う羽目に陥ったというホワイトデーとどめのハプニングは、カメと美羽だけの小さな秘密となった。





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