Ｐａｓｔ　Travel　３．「プールバー・カリフォルニア」

シリーズ「Past　Travel」　３．　「プールバー・カリフォルニア」

カツッーンンン・・。
球と球がぶつかり、細く鳴き声をたてる。
転がる音と落ちる音がそれに続く。
見事に手玉を残して消えるナインボール。だからって拍手も歓声もない場内。
それはそうだ。
真っ昼間そこにいたのは、キューを持った男一人きり。
店が開くまで、あと数時間。

繁華街の中。狭いビルの３階。
プールバー「カリフォルニア」は最近リニューアルされた。
元々はバブルの頃に乱立したたくさんの店の一つで、
バーとは名ばかりのただのビリヤード場だったのだが。
景気は悪いのに、ビリヤードにはそこそこ若い連中が戻ってきているのを見越して、
オーナーがバクチに出たという噂。
プールバーという名前に恥じない、お洒落な内装と雰囲気に様変わりした。

開店の日。
小さな店だが古いところなので、
近所から花も届けられて、入り口はそれなりの華やかさ。
にぎわいを狙って配られた、リニューアル記念サービスのチラシも功を奏したのか、
若いカップルが次々と訪れた。
かなりの盛況。雇われ店長が応対におおわらわしている。
店内はバイトの青年が４，５名仕事に追われている。
１０ある台は全て、客で溢れ返った。
壁面に設置されたＢＡＲでは、バーテンがカクテルを作るのに忙しく、
「カリフォルニア」の初日はまずまずといえた。

夜も更けて。
それぞれの台にグループが収まれるくらいの数になった頃、トラブルが起こった。
一組のカップルがケンカを始めたのだ。
いや、ケンカと言うより、男が一方的に女に怒っていると言うべきだろう。
何が気に入らないのか、声は段々高くなっていく。

「・・・おまえはいっつもそうだよな。少しは口答えしたらどうなんだよ！」
「森ちゃんたら。飲み過ぎたんだよ。」
「そうやって俺を酔っぱらい扱いしてさ。馬鹿にしてんだろっ？」
「違うよ。ね、出よう。ちょっと酔いさまして・・」
「うるさいっ！！」
怒鳴り声の直後、どこかにぶつかるような音がした。
ざわめきと共に周りが引いてできる輪の中。

男は３０前後。
短髪にジャケットの格好は普通に見えるが、
その顔には今、凶暴さと暗さだけが浮かんでいる。
突き飛ばされたのか、床に倒れている女は少し若い。
長い髪は金髪に染められているが、不思議と柔らかな色で華奢な肩に乱れている。
シンプルなワンピースが返って、綺麗な体の線を浮かび上がらせていた。

「しょうがない奴だと思ってんだろっ！　言いたいこと言やいいじゃねえかっ！」
男は激昂した気持ちのやり場がないのか、起きあがらない女を蹴り飛ばしかけた。
「あ、危ないっ」
声を上げた客が一瞬目を背けた。
ドスッ！
だが漏れてきたのは男の声。
「・・・ぐっ・・・」
目を戻すとうずくまっているのは男の方で、
その横にいつのまにか、もう一人男が立っていた。

店の制服を着ているのだから、従業員なのだろうが、
サングラスで見えないがその眼が。
女が殴られなかったことにホッとした客の背筋に、別の怖さを走らせた。
だがその殺気は一瞬だったようで。
その従業員は、倒れている女性の方にしゃがみ込んだ。

「大丈夫か？」
「う・・あ・・はい。」
軽い脳しんとうでも起こしていたのか、今気づいたように女性が顔をあげた。
目に入ったのは、パーマッ毛の髪にサングラスの顔。
だが、すぐそばなので瞳が見える。その表情は心配そうだ。
「だい・・じょうぶです。・・え？　森ちゃん？」
女性はうずくまっている相手に驚き、自分のことは忘れてにじり寄る。

「ど、どうしたの？」
「悪い。俺だ。」
うしろからの声に振り向く。サングラスの男だ。
「あんたを蹴りかけたんで、つい。腹に一発。」肩をすくめながらあっさり言う。
男がようやく体をおこす。
「こ・・・の・・・」
「まだやるなら、外で相手になるぜ。」

サングラスの従業員の淡々とした言葉に、森ちゃんと呼ばれた男はその顔を見る。
なんとも不敵な危ない視線だ。どこか自暴自棄。
やばいと思ったのだろう。矛先を女に戻した。
「けっ。舞子。おまえのせいでとんだ目だ。もう俺に顔みせるんじゃねえ！」
「森ちゃん！」
「その声も聞き飽きた！　あばよっ！」
背を向ける男の腕に女がすがる。
「ま、待ってよっ！」

振り返った男の顔をサングラスの従業員が見ていた。
「離せッ！」
ふりほどいて男は店から出ていく。
見送って動けない女を残して、見物客もまたビリヤードに散っていった。
繁華街では良くあること。短い劇の上演だと思えばいいのだ。
面白かったが、幕は下りた。

女はやがて、肩でため息を吐くと立ち上がった。
ホコリを払ってバッグを拾う。
「・・・悪いことしたかもな。」
サングラスの従業員の言葉に、彼女はかぶりを振る。
「ううん。・・・初めてじゃないから。何度もやってるの。でも・・・本気かも。」
女の目が悲しげだった。
「来いよ。」
従業員はその手首をひっぱって、ＢＡＲまで連れてきた。

「純さん。お薦め一つ。俺が払うから。」
バーテンに頼むと、
遠目で一部始終を見ていた純さんと呼ばれるバーテンはウィンクした。
「いいよ。開店サービスだ。スペシャル作ってやる。」
シェイカーを優雅に振ると魔法のように、彼女の髪のような金色のカクテルが現れる。
「dream」
すいっと滑らかに差し出されるグラス。
「ドリーム？　夢・・ね。ありがとう。」
ゆっくりと口に含むと思わず言った。
「・・・おいしい。」

そこで。
初めてぽろぽろと涙をこぼした。唇を噛みしめて。でも顔も伏せずに。
「・・大丈夫か？」
男の問いに２，３度うなづき、涙の顔で女は微笑んだ。
「ごめんね。開店の日に迷惑かけて。・・・あたし舞子。あなたは？」
「天羽。」
彼の返事は短かった。。

その夜、舞子はカクテルを飲むと帰っていったらしいが、
天羽はそのあと仕事で動いていたので気づかなかった。
あとで思う。

あのふたりは何だろう。
男の蹴り方があまりに容赦なさそうだったので、こっちも容赦なく殴ったが。
最後に振り返った顔は。見間違いだろうか、不思議なくらい愛しげな。
それが違和感で残って、舞子にも声をかけてしまった。
今の自分は、あまり他人に関わる気がないのに。

店の閉店は朝の５時。片づけをして店を出ると６時。
初夏の日はもう昇っている。
夜働く生活では、太陽は眠りの合図になる。
ここにどれくらいいようか。
まだそんなことも決めてなかった。

数日後の深夜。
再び現れた舞子は、一人。
静かにＢＡＲで飲んでいたが、ずいぶん深酒したらしい。
閉店間際に天羽が気づくと、ＢＡＲのカウンターで眠り込んでいた。

「おい。起きろよ。」
揺すっても怒鳴っても目を開ける気配もない。
純さんと顔を見合わせる。
「だめだね、その子。・・・どうする？」
「どうするって言っても。」
ここに残してもいけないし、そんなことさせてもらえるわけもない。
開店まで鍵をかけるのが当たり前だ。
思いっきり眉をしかめた天羽だが、何故かかついで店を出る羽目となっていた。

「なーっんで・・・俺がっ。」
おんぶ状態であてもなくさまよう気はしなかったので、行き着いたのは自分のアパート。
寝るだけのつもりの部屋。
前の住人が置いていった、がたつくベッドと布団があるだけだ。
そこにドサッとおろしてやる。
「はぁ～っと。」

首をならしながら冷蔵庫からビールを取り出す。
シュパッと開けたそれを手に、
正体もなく眠り込んでいる顔を見れば、涙の痕が幾筋か。
「・・・逃げたのかな、あいつ。」

苦虫を潰したようにしかめる眉。
女をおいて逃げる男くらい許せない奴はいない。自分にとっては。
一気にあおったビールは、唇から溢れて床を濡らした。

手を伸ばしても。伸ばしても。
届かないその腕。
腕－。
遠くなるだけ。自分からどんどん離れていくだけ。
待って。待って。
「待って！」

自分の声でハッと目を開けた。
夢でまた泣いていたらしい。頬が涙で濡れてなま温かさが悲しい。
顔を手で覆って噛みしめる唇。
「・・・森ちゃん・・・。」
つぶやいたその声に誰かが応えた。
「ろくでもない夢でも見たのか。」

声に驚く。
ガバッと起きあがって見下ろしたところに、毛布をかぶった男が転がっていた。
「だ、誰っ？」
「さて。誰だと思う？」

からかうようなその顔に見覚えがなくて焦る。
「なっ、なんでここにいるのっ？」
「俺の部屋に俺がいるのは当たり前。」
「・・え？」
言われてみれば違う。自分の部屋じゃない。え？　え？

「危ないなぁ、あんた。襲って下さいって言わんばかりじゃん。」
男がすっくと立ち上がったので身構えた。
「ここまできて身構えてもしょうがないだろうに。」
笑いを含んだ余裕の声。
舞子の横に手をつくと顔を近づけたので、身をすくませる。

「なにっ・・よっ・・！」
キス？
目をつむって固まりかけたとき、声の調子が変わった。
「あんた、俺のこと覚えてない？」
離れた声に目をそっとあけると、サングラスをかけたその顔。

「あ・・。えっと・・天羽？」
「あたり。」
「え？　なんで？」
「だから。あんたゆうべ、うちで酔いつぶれたんだよ。ほんとに覚えてねえの？」
呆れた口調で言われて、ようやく記憶が繋がった。そう、そうだ。それで。

「・・・じゃここ、あなたの部屋？」
「しょうがねえじゃん。あんたのところ知るわけないし。
　路上において帰ってもよかったんだけど。」
天羽はそう言いながら、コンロにやかんをかけ、
冷蔵庫からコーヒーを取り出してドリッパーに掬い入れている。
「あんた、いつもああいう飲み方するのか？」

ようやく事の次第がわかって、舞子がため息を吐く。
「ごめんなさい。ずいぶん迷惑かけちゃったのね。」
「まあ、縁といえば縁だから。」
しゅんしゅんと鳴るやかんをとりあげ、ゆっくりとドリップするコーヒー。
芳ばしい香りが狭い部屋に満ちる。
「ほら。」

差し出されたカップが温かかった。
「ありがとう。」
舞子は受け取ると、ちょっと不思議そうに天羽を見上げる。
乱入者に全く動じていない様子で、
まるでいつもの風景のようにコーヒーを飲んでいる男。
舞子の視線にきづくと、いきなり聞いた。
「なに。あいつ、逃げたのか？」

ぼんやりと忘れかけていた現実を突きつけられた。
森ちゃん－。
「・・・あたし、何か言った？」
「いや。でもまあ、こないだのゆうべだし。あんたひとりだし。」
「そう・・・よね。わかるよね。・・・あのあと、いなくなっちゃった。
　部屋はそのままなんだけど・・・。」

悲しげに目をカップへ落とす。
「暴力に置き去りか。やめとけば、そういう男。」
もっともな天羽の言葉に、しかし舞子は激しく首を振った。
「違うの。そう言う人じゃないの。」
その目が潤む。

　　　森ちゃん、彼。森一っていうんだけど。
　　　あたしたちね、田舎が同じなの。
　　　同じ街で育って。彼が年上だけど、ずっと同じ学校辿って。
　　　高校の時からつきあい始めて。
　　　途中切れたりもしたけど、結局元の鞘で。

　　　彼ね。ビリヤードが好きで。プロになりたかったんだ。
　　　選手権とかも出てたんだよ。３位とか。いい線行ってたの。
　　　でも。
　　　優勝を狙える大会の直前にケンカして。利き腕怪我して。それで欠場。
　　　それ以来・・・駄目になっちゃって。
　　　緊張の糸が切れちゃったのね。良くある話だけどあとは。

　　　そりゃあプロ目指したくらいだから、
　　　そんじょそこらのビリヤード場ならピカ一だけどね。
　　　でもそういうのって余計に辛いらしくて。
　　　だからって、それ以外の道を捜すには不完全燃焼で。未練が残りすぎで。
　　　ずっと・・・ウロウロしてるの。わかってるのに。踏ん切れないの。

「だからってあんたに当たるのも違うだろ。」
天羽が冷たく言い切る。
「う・・ん。でも。他に言う人いないのよ。
　田舎にも戻れなくて。仕事もうまく見つからなくて。
　どうでもいいバイトで食いつないで。あちこち転々として。」

「まあ、仕事に関しては俺も人のことは言えないけどな。でも。
　女を殴る奴はろくでもないぜ。やっぱり・・・やめといたほうがいいんじゃねえの。
　第一、逃げたんだろ。」
あくまでも冷静で斬るような天羽の言葉。

「・・・やっぱり逃げたのかな。置いてかれたのかな。」
舞子の顔が歪む。
「いままで、どんなに怒っても、たとえば殴っても、蹴られても。
　いなくなったりしなかったんだよ。なのに。」
迷子の子どものようだ。
「愛想つかされたのかな。もう・・戻ってこないのかなぁ。」
泣くまいとしてるけど、涙は今にもこぼれそうで。
それをカップで受け止めようとしているかに見える。

見つめていた天羽はため息をつくと、自分のカップを置いた。
それから舞子の横に座るとそのカップも取り上げて。
柔らかく抱きしめた。
舞子が固まる。
「あんたさ。たまには・・・声出して泣いてみなよ。そしたら・・・楽だから。」
その言葉と温もりに。
固まった体からゆっくりと力が抜けて。

「あっえっえっ・・・っんっんっ・・」
舞子はしゃくりあげると泣き始めた。忘れていたものを思い出すように。
その声は段々と大きく高くなり、いつのまにか天羽の背にしがみつくようにして。
舞子は何年か分の泣き声をもらし続けた。
それを受け止めながら。
天羽の視線は窓の向こう。傾き始める夏の陽を見ていた。
また夜が来る。

思う存分泣いた舞子はしかし、張りつめていた気持ちが切れたのか。
天羽の胸でまた眠ってしまった。
仕方ないと言う顔でもう一度ベッドに横にして。
天羽はメモだけ置いて。仕事に出かけた。もう夕方になるところだったから。
『ベッド、もう一晩貸してやる。』

その夜は週末で、店内はごった返していた。
働く方にすれば込んでいるのは嬉しいが、動きづらいほどの人。
その間を縫うようにして、天羽は他の従業員と共に仕事に忙しかった。

一段落ついたのは深夜３時前。大分人波も減ったその頃。
入ってきた影に気づく。
あいつー。森一が現れた。
首を巡らせて誰かを捜している。と、視線が天羽とぶつかって。
睨んだその目。まっすぐにこっちへ向かってきた。天羽は動かない。

「おい。おまえ、舞子を知らねえか！」
「何？」
「知ってるんだろ。ゆうべここに来てたって聞いたんだ。どこへやった？」
「おまえ・・・あの子を置いて逃げたんじゃなかったのか？」
天羽の言葉にぐっと詰まる。

「逃げた奴がまた、なんできたんだ？　殴り足りなかったのか？」
鋭さを増す天羽の言葉。その目つきもどんどん危なくなる。
「あんたみたいな奴に答える義務はないね。」
「おまえ、舞子に惚れたのか？」
天羽があきれた顔になる。

「馬鹿じゃねえのか、あんた。同じ男に数えられるのもごめんだぜ。」
「なんだと？」
「昔の夢をいつになっても引きずって、
　八つ当たりして甘ったれるような奴が一番嫌いなんだよ、俺は！」
天羽の怒鳴り声に店内が静まり返った。
「ビリヤードのプロになるつもりだったって？
　どうせたいしたことなかったんだろ。さっさと諦めて正解じゃん。」
男の顔色が変わった。

「へえ。まだプライドが残ってんだ。なら、俺と勝負するか。ナインボール。」
「馬鹿言え。腐ってもプロ志望だ。おまえなんか。」
「負けたら情けなくてその辺歩けねえもんな。」
天羽の言葉は至って冷静だがきつい。煽られた男はとうとう切れた。
「いいだろう。俺が勝ったらこないだの分も含めてコテンパンだからな。」
「好きにしろ。」

ちょうど人も少なくなって、眠気が漂いだしていた店内は、一気に覚醒した。
面白そうな見物。ふたりの回りに集まってくる。
「ブレイクショットは？」
「やれよ。ハンデだ。」
森一が譲った。プライドだろう。
「後悔するなよ。」

天羽はキューを握ると手玉を置いて構える。
その仕草に森一の顔が引き締まった。
まるっきりの素人でもないのか。構えが安定している。
何度か振るストロークにもブレがない。
「いくぜ。」
スパッとキューが滑り、９つのボールが華のように弾けた。

深夜に目覚めて天羽の部屋を出た舞子は、ふらふらと繁華街を歩いていた。
メモに気づいたけど、これ以上迷惑をかけるのも気が引けたから。
思いっきり泣いたなあ。
あんなに大泣きしたのは久しぶりで。心によどんでいたものが流れ落ちるようだった。
でも。これからどうしよう。

今まで森一と生きていくことしか考えていなかったから。
急に一人になると、世界の広さと心細さに震えてしまう。
もう・・・帰ってこないのかな。

見上げたって、ネオンだけがまばたきを繰り返す空。
今は遠くてかすんで見えなくても。
そこに星はある。知っているのに。

とりあえず、天羽に礼を言っていこう。
ずいぶん迷惑かけちゃったから。
そう思って足を「カリフォルニア」にむけたのだ。

もう閉店間近だから、人も少ないだろう。
そう思って入った店の熱気にびっくりする。
「おおっ、すげぇ。あんなバンクショットできるのかよ。」
「今クッションいくつだった？　信じらんねぇ。」

人だかりができていて、皆口々に感嘆の声。誰かうまい人がやってるのかな。
「これで落としてやるよ。」
聞こえてきた声は天羽？　彼が突いてるの？

近寄って人垣にもぐり込む。
前の人の陰から見えたのはやっぱり天羽だ。
やっぱり冷静な表情で、キューにチョークをこすりつけている。

「すげえな。あっちの兄ちゃんだってうまいんだろ。」
「あっちはプロ志望だったってさ。でもミスが続いたな。スクラッチしちまってさ。」
「頭に血が上ってるんだろ。随分自信あったようだし。」
「引き替えサングラスの兄ちゃん、てんで動じないからな。」

頭の上で聞こえる会話。誰かと勝負してるんだ。
プロ志望？
構えた天羽のキューは、やっぱりブレも迷いもなく、見事にストップショットを突いた。
思わず追ったその行方。

白い手玉は逆回転で７番ボールを浅く突く。
その７番ボールはバンクに当たると跳ね返り、
まるで吸い寄せられるように９番ボールを目指した。

「・・・入る。」思わず漏れる声。
カァ・・・ン。わずかな角度で見事に弾かれた９番ボールは、
あっさりとその身をポケットに沈めた。

一瞬の静寂。
「やったー。」
「兄ちゃん、すげえっ！」
「いやぁ～、見物だったぜ。あの角度で入るんだな。」

見物客の興奮状態の中、淡々と肩をすくめる天羽を見て、
相手は一体誰だったのかと、舞子は体をよじってのぞきこんだ。
「・・・森ちゃん・・」

そこに見たのは蒼白の顔の森一。
噛みしめた唇。握ったキューが震えている。
天羽が舞子を見つけた。口の端を歪めるが、素知らぬ顔で森一に向かう。
「俺の勝ちだな。」

森一は答えられない。プライドがずたずただ。
勝負は一方的だった。本来の力なら天羽がかなう相手でないのだが。
あまりに平静を失っている森一に、ブレイクからとにかく球を沈め続けて。

森一にチャンスは２度あった。
そのチャンスも焦る森一のあり得ないミスでつぶして、あとは天羽の独壇場となったのだ。
人の見ている前でこんな屈辱はなかった。
ぶるぶると震える指。舞子の胸が痛む。

「あんたがプロになれなかったのは、そのやわな精神力だな。」
天羽はさらに追いつめる。
「そんなんじゃ勝負にはむかねえよ。で。俺が負けたらコテンパンだったんだろ。
　負けたのはあんただ。どうする？」
「・・・好きにしろ。」

うつむいた森一。何も言えるわけもない。
「もう一度やるか？」
意外な言葉に野次馬までざわめいた。

「あんたがブレイクしなよ。ナインボール。
　但し全部突くんだ。番号順に。条件は最後までミスしないこと。」
天羽の意図がわからず、森一はその顔を見直す。

「もし、ミスしたら。」
天羽はそこで手を伸ばすと、舞子の腕をつかんでひっぱった。
「きゃっ」
「この子の前から消えるんだな。」

今まで舞子のいることに気づかなかった森一は驚く。
「舞子。」
「・・・森ちゃん・・。」

「最後まで打ち通せたら、コテンパンにされてやるよ。」
「なんで・・・？」
「女を置き去りにする男が許せないだけさ。」
うそぶく瞳は絶対零度。殺気すらある。

「・・・わかった。」
「森ちゃん。」
「黙ってろ。」

再びゲームは始まる。
息を潜める見物人の中。
ブレイクショットを前に、森一は目を閉じる。
何を思うのか。何をつかみたいのか。開けた目が舞子とぶつかる。その願い。
息を吐くと、表情が変わった。

キューが爆発するように手玉を飛ばした。
それから。

その場で見ていた全員が釘付けとなった。さっきとはまるで別人。
ありとあらゆるテクニック。繊細な読み。正確な突き。
それこそ針の穴をとおすコントロールで、球は転がされ進んでいく。

１番。２番。３番。クッションは先の先を読んでいく。

４番。５番。６番。迷いのない潔いそのストローク。

７番。なかなか見ることのない見事なジャンプショットが宙をとんだ。

８番。長い台を往復した玉は、正確さとスピードで狙い玉をポケットに押し込む。

そして９番。
静まり返った店で。ナインボールは姿を消した。

歓声があがった。さっきの天羽に対してよりはずっと大きく。
決して目の肥えてない野次馬にすらよくわかる、見事さだったのだ。
「すげえっ！　俺は感動したぞ！」
「プロになれよ！　なれるって。絶対。」
「はあ～、こんなことできるんだな。目の保養だったぜ。」

囲まれ、誉められ、肩を叩かれ。
森一は茫然としていた。こんな風にされたのは一体いつだろう。
昔。ランキングをあげようと、試合を転戦していた頃。
でも。あの頃ですらこんな満足感はなかったかもしれない。
つかむために。何を？

その目は舞子をとらえた。濡れた目から涙が落ちている。
ゆっくり歩み寄ると抱きしめた。
「・・・ごめんな。」
首に絡みつく腕の温もりに初めて安堵した。
こいつのためだー。

「俺の負けだな。」
天羽の声。やっぱり淡々としている。
「コテンパンにしてもらおうか？」

森一は天羽を見ると首を振った。
「いや。俺が負けてるんだ。・・・打たせてくれて感謝するよ。あんたに。」
意外そうに天羽の眉があがる。

「ずっと未練があって。動こうとしなかった。中途半端で。
　なんか・・・今。これで踏ん切り突いた気がする。ありがとう。」
舞子を抱いたまま、天羽を見つめて。
ずっと険のあったその顔が柔らかく微笑んだ。

天羽は口を尖らせると、そっぽを向いて。行きかけて。
それから思い出したように振り返ると、森一に言った。

「今日。」
「？」
「今日の夕方５時にさ。ここに来いよ。」
「え？」
「いいな。じゃぁ。」

それだけ言うと、すでに閉店時間となった店をかたづけるため、
興奮さめやらぬ客を追い出し始めた。
森一と舞子も店を後にしたのだ。寄り添って。

同じ日の夕方。
天羽に言われたとおり、森一は店にやってきた。
なんだろう。一発くらい殴られるかな。それも仕方ないが。
そう思いながら、階段を上がってのぞき込む。
すると見覚えのある店長がいた。

「すいません。あの、天羽って人は？」
「ん？　あ、あんた。森一って奴か？」
「は？　ええ。そう・・だけど。」
「今日からあいつの代わりだって？　よろしくな。」
「ええっ？　俺？」

「ビリヤードが凄いうまいんだって？　ゆうべ客が大喜びしてたらしいな。
　助かるよ。人集めにエキシビジョンとかやってくれるか？」
「あ、あの。天羽って人は？」
「ん？　聞いてないのか？　なんか急にやめるから、代わりにあんたに頼んだって。」
わけのわからない森一だったが、ともかく。
その日からそこで勤めることになったのだ。天羽に代わって。

森一から連絡をもらった舞子は、あわてて天羽のアパートへすっとんだ。
でも。すでにもぬけのカラ。
テーブルの上には、小さなビニール袋にビールが３本。
”就職祝い”　それだけ。

なんだったんだろう。
なんであんなに優しくしてくれたのか。
恋愛でもなく、かといって同情でもなかった気がする。

まるであたしを助けに現れた天使みたいだった。
天羽。天の羽。ほんとにそうだったのかな。
そのビールを手に。舞子は祈った。素っ気なくて優しい彼の幸運を。

ネオンの空の向こうには、今日も偽物のようで本物の星が瞬いている－。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜Ｔｒａｖｅｌ．３　end＞