時計の針は十一時半を指していた。

眠気覚ましにコーヒーでも入れようと、階下へ降りてきた康平は、帳簿にのめりこむようにしている母を見た。店舗につながっている狭い台所のテーブルの上には電卓と赤ペン。今月も家計は厳しいのだろう。


桜川書店は祖父が始めた店だ。昔はともかく父が生きていた頃でもそれほど余裕はなかった。父が死んでからは毎月、毎日を辛うじて凌いでいるのが現状だ。それでも店があるから母と康平と真衣、三人での暮らしがなんとか立っている。

気配を察して母が振り返った。蛍光灯に照らされた母は昼間と違ってやけに老けて見える。息子としては切ない。


「飲み物？」
「ああ。眠気覚まし」
「コーヒーでいいわね」

「やるよ。母さんも要る？」
「入れてくれる？　うれしい」
「あー、あたしもあたしも！」

すごい勢いで駆け下りてきたのは妹の真衣だ。中学二年生。反抗期の真っ只中で母には口答えばかりするが、兄の康平には甘ったれだ。

「おまえ、コーヒー飲めたっけ」
「飲めないわよ。ココア」
「……自分で入れろ」

「いや。康ちゃん入れて」
「甘えん坊さんね真衣」
「お母さんほっといてよ」

ムッとした娘の鋭い声にも母はケラケラ笑っている。父を亡くしてからもずっとこんな調子だ。生活の中に楽しみを見つけるのがうまくて、何かにつけ面白がる。無理してるわけじゃないと思いたい康平だが。

辛くないはずはない。
頼る人が消えた人生。


「康ちゃん早くー」
「ほんっとに勝手だな、真衣」
呆れた声になっても要望どおりミルクたっぷりのココアを渡してやる。にまっと嬉しそうな真衣につられて笑ってしまうのだから、甘い兄貴だ。

「ここで飲んでいけばいいのに」
「部屋がいいの。康ちゃん、ありがと」
さすがに上りはゆっくり、こぼさぬように気にしながら、真衣は二階へ消えた。つむじ風みたいな奴だと思う。

「ほら母さんも」
「ありがとう」
湯気の立つコーヒーは砂糖もたっぷりだ。うれしそうに手に取って一口飲むとうっとりした顔で康平を見る。

「おいしい。康平に入れてもらうと百倍おいしいわね。インスタントコーヒーだっていうのに」
「そりゃ光栄」

母のほめるのを惜しまないところが好きだ。難しい年頃の真衣は文句ばかりだが、鷹揚な母のおかげでまっすぐ素直に育っている。康平に頼りすぎなのが問題だが、何かと構いすぎる自分のせいともいえた。

妹だけではない、母にも甘い自分を康平は自覚している。家族を守ろうとするのは長男としてあたりまえだが、間近に迫る進路は康平にとって大きな悩みだった。

自分自身の望みと家族への愛情が相反するときはどうしたらいいのか。何年考えても答えはみつからない。


「康平？」
母の声に我に返った。ぼうっとしていたらしい。

「どうしたの」
「いや。今月、大丈夫か？」
眉を上げた母が毅然として告げる。

「子供が心配しないの。あんたこそ受験勉強してるんでしょうね」
「もちろん」
「ならいいけど」
うつむく康平に母は続けた。

「……行きたいところに行きなさい。あんたなら大抵のことはやりとおせるわ」
「母さん？」
驚いた顔をすると母は笑った。

「家のことはお母さんが考えるから」
「そんなわけにはいかないだろ。真衣だってこれから高校だし」
「いざとなったら」

「だめだ」
「康平」
じっと、強い視線が当てられる。

「あなたと真衣以外に、おかあさんが守るべきものなんてないのよ」
ぐっと言葉に詰まる。

「後悔しない道を選びなさい。わかった？」

穏やかな顔にうなずくしかなかった。絶対的な信頼と許しはたぶん、康平がどんな道を選ぼうと揺らぐことはあるまい。それがうれしく思えないのはどうしてなのか。


実紀の顔が浮かんだ。
強いまなざし。こめられた熱。

『ずっと、一緒よね』


選ぶべき道はどれなのだろう。
康平にまだ、答えは見えない。





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