彼女は風をまとっている。
彼女自身が巻き起こした風を。


４階建ての校舎。生徒会室は２階にある。職員室の真横なのはどっちでもいいが、トラックの直線コースが真下なのは自分にとって重要な事実だ。夏休みの学校へわざわざ来る気にさせるくらいに。
「ダッシュ、いくぞー」
大きな声にピーッと笛が続く。ランダムな足音がグラウンドを蹴るのが聞こえる。


パソコンから顔をあげた篠井　洋輔しのい　ようすけ　は伸びをしながら立ち上がった。グッドタイミングだ。見下ろすまさしくそこを彼女が駆け抜けていく。まっすぐな髪が風を従えている。

楢なら　高校は県下でも指折りの進学校だが部活動も盛んだ。そんな中でも次石　実紀つぎいし　みき　は中学から短距離走で頭角を現していた。高校に入ってからは県大会で優勝し、全国でもいい位置につけるのに今ひとつ欲がないと顧問が嘆いているそうだ。

実紀らしいと思う。彼女にとっては走ること、それ自体が大切で必要なのだ。走る彼女を見ていること、見つめ続けることが自分にとって大切で必要なように。


ガラッと戸が開いた。スタスタと近寄る足音。
「暑いのにご苦労なことね」
すぐ後ろから聞こえる声に振り返る必要はない。その皮肉な口調はお馴染みだ。

「夏を嫌がっちゃ陸上部はつとまらないだろ」
「誰が陸上部のこと言ったのよ」

白い運動靴をヒールのように見せるのは彼女ならではだ。短いスカートから肉感的な腿をのぞかせて。犯罪をそそる身体だよな、ほんと。

久賀　林子くが　りんこ　。中学からの親しい仲間でありながら会えば角を突き合わせる相手だ。まさか生徒会で一緒になるとは。誘ったのは洋輔だが、使える奴が欲しくて背に腹は代えられなかったのだ。

「あたしはあんたのことを言ってるの」
「文化祭の準備じゃしょうがないだろ。おまえだって出てきてる」
「よく言うわよ。何もなくたって来るくせに」
「……どういう意味だ」

薄っぺらい紺色のバッグを投げ出した林子は、持っていたペットボトルを弄びながら机に腰掛け、挑発的に足を組んだ。

「そうね。あたしくらいかな、わかってるのは」
「何を」
「洋輔がいつも、誰を見てるのか」
眼鏡の奥で洋輔の切れ長の眼が大きく開いた。

「生徒会に入ったのもこの部屋に入り浸れるからじゃない？　実は」
「林子」
「ご苦労なことよね。クーラーもついてない部屋で夏休みだってのに」
強いまなざしで洋輔を見据えると、口の端でクッと笑った。

「あんたが忍ぶ恋なんて。笑っちゃう」

逸らした眼は窓の外へ落ちる。駆け抜ける実紀。風を道連れに。
「忍んでるわけじゃない」
意外そうに林子が眉を上げた。

「そんなお人好しに見えるか、俺が」
「……何よそれ」
「なんだよ。煽ってるんじゃなかったのか」
俄にわか　にあわてた林子を今度は洋輔が笑う。

「だって」
「心配無用。俺の最優先は彼女だ」
揺るがぬ声で言い放つ。
「彼女が望む限りは邪魔はしない」
「だったら」
「でも。チャンスを見過ごす気もない」

じっと洋輔を睨んだ林子が疑わしげに聞いてくる。
「チャンスがあると思ってるの」
「気は長い方でね」
「ふん。待ちぼうけ食らって泣けばいいのよ」

そう言い捨てるとペットボトルの口をひねった。シュッと音を立て微炭酸が林子の唇から流し込まれていく。コクコクと鳴る喉を無感情に眺めてから、また外を見る洋輔。


走り抜けていく実紀はまさしく風のようだ。
まぶしすぎる輝きに幻惑されるのは自分だけではあるまい。でも、見守り続ける月日は誰にも負けぬ自信がある。


「ちょっと。いい加減仕事に戻りなさいよ。さっさと片付けて帰りたいんだから、こんなクソ暑い日」
こっちを見る彼女はすでにいつもの顔だ。
「はいはい。横暴会計殿」
「あんたに言われたくない」
皮肉な応酬はしても口止めはいらない。長いつきあいの良さは洋輔も認めざるを得なかった。


やめられるならとっくにやめている。だからやめない。
蒸し風呂の真夏の教室も、彼女が走れば聖域。
ほら感じた。


風、たちぬ。





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