ウーロンハイが空になった。
おかわりを頼もうか。飲み過ぎるかな。
カレーハウスで時計を見ながら一星いっせい　は思案していた。

待ち人はまだ来ない。光姫みつき　が待ち合わせ時間に遅れるのはお約束のようなものだ。決して時間にルーズなわけではなく、仕事だから。


一星自身はまだ大学生だが、彼女は社会人の営業バリバリ、成績トップで社内じゃ有名だ。おまけに美人。歩くだけで人目をそばだたせるほど。

客観的に見れば自分の方が劣っているという事実はあまりうれしいものではない。彼女を得るまでは考えなかったことだ。というよりもそういう面を知らずに別の面を先に好きになった。

一星にとっての彼女はキャリアウーマンのできる女ではなくて、真夜中に酔っぱらってユーフォーキャッチャーのガラス戸をがんがん叩く子どもみたいに可愛いひとだ。


「ごめん、遅れて」

けれど認めよう。できる女にもそそられる。
ようやく駆けつけた彼女をみつめ、一星は口笛を鳴らしそうになった。集まる視線につい自慢したくなる。

それほど背の高くない光姫だが高いヒールのパンプスが彼女を小さく見せない。いや、小さく見せないのはあふれる自信のせいだ。ルージュは艶やかで、汗を拭くハンカチを握る指先のネイルは艶のみ。スーツははっきりした色が多いが、今日はベージュにカーキのシャツを合わせている。

仕事中は止めていただろう第一ボタンがはずされ、雫の形をしたシルバーのネックレスがのぞいて思わず顔がゆるむ。去年のクリスマス、一星からの贈り物だ。意図的にしろそうでないにしろ、彼女は自分を喜ばせるのがうまい。

席に着いた光姫にメニューを差し出す。
「仕事じゃしょうがないさ。腹減ったろ。おすすめは……何？」
彼女がのぞき込んでくるので戸惑う。
「一星ってほんとに物わかりいい。良すぎるわ。たまにはごねたら」
「何を」

「いつもデートに遅れるなんて、俺のことをないがしろにしてる、とか」
「とか？」
「俺と仕事とどっちが大事なんだ、とか」
「そんな恐ろしいこと聞けるもんか」
「どうして」
「仕事って断言されるに決まってる。泣くに泣けない」

真顔で言ったら意外なことに光姫は不満げだ。

「ずいぶん自信がないのね。それとも愛がないのかしら」
「そっちこそずいぶん絡むね。珍しい」

光姫の喉を潤すための生ビールが突き出しとともに並べられる。一星の分もだ。ジョッキを軽く合わせたあと、どちらも一気に飲み干してはーっと満足の息をつく。それから。

「入社二年目の男の子が彼女にふられてしょげてたの。その理由がね、デートに遅刻ばかりしてたからですって」
「へえ」
「浮気や遊んでならともかく、一所懸命仕事しての遅刻だったら、責める彼女が悪いって慰めたんだけど、考えてみたら私も同じ立場かなって。なのに一星ったら文句言ったことないし」

キーマカレーのぴりっとした辛さに舌が喜ぶ。もっと辛くてもよかったな。光姫はというとチキンカレーのしかも甘口。辛いのは苦手とか。彼女はいつも意外なところに可愛さを隠している。

「一所懸命仕事してる彼女に文句言うほうがどうかしてる」
「そうだけど、なんだか」
「なんだか？」
「遅れるのは私ばかり、罪悪感も私ばかりって損だわ。少しはなだめたりご機嫌とったりさせてくれないと」

口を大きくあけて、スプーン山盛りのご飯とカレーをぱくりと含んでにまっと笑う。この彼女に怒れって？　そりゃ無理だろうと苦笑になる。もっとも。

「そりゃ是非お願いしたいね、あ・と・で」

そこだけ声を低め意味深にささやいた。光姫は口いっぱいのカレーをのみこんでから、じろっと一星をにらんだ。
「す・け・べ」
「男なもんで。あぁそうだ」
チャンスは生かそうと付け加える。

「ご機嫌を取りたいなら、今日は十本全部俺に取らせて。いい？」

再びスプーン山盛りのカレーをほおばろうとしていた光姫があきれた顔でぐるりと目を回してから、ぱくりとスプーンに噛みついた。ナンをちぎった一星も同じく。ふたりは無言の笑いを交わし合った。



久しぶりの逢瀬もウィークデーだからあわただしい。自宅じゃなくてホテルにしたのはお互い帰らなきゃならないのを忘れないためだ。光姫はもちろん一星も明日はバイトと授業が詰まっている。忙しさも遅刻もわかっててそれでも会いたいのだから、文句言う時間などもったいないじゃないかと思う。

仕事モードの光姫は髪を巻き上げ、ピンで留めている。男にはどこをどうやっているのかわからないがきれいにかっちり。ピンは十本。必ず十本。どうしてと聞いたら毎日のことだから知らずに定まったのよと光姫は言った。そういうものかもしれない。

シャワーの前、そのピンを一本一本はずしていく仕草はキャリアウーマンからプライベートへと変身していくようで、いつも魅せられる。抱き合う前の儀式のようにも思える。いつだったか、ピンを取らせてくれと頼んだら光姫は驚き、それから笑った。

「男の人がそんなことしたいの」
「あなたの髪からピンを抜きたいんだ」

それから、ピンを何本抜くかはその夜の彼女の機嫌をはかるゲームになった。ご機嫌がいいと多く、悪いと少なく。でも十本全部抜かせてくれたことはなかった。

「武装を解くようなものよ」

人に任せるのは不安なの、酔って漏らしたのが本音だろうと思う。全てピンを抜かせてくれたらひとつステップアップってことかな。いつしかそんな風に考えるようになった。


大きな記念日はドラマチックに身構えるけれど、小さな記念日はさりげなくやってくる。

機嫌の良さで言えば今夜の光姫は最上級。ウイークデイだというのに酒もすすんでその分、幼さが勝っていく。ホテルの部屋にたどり着く頃には小学生か幼稚園児クラスだ。入るなり、皺ひとつないようきれいに作られたベッドの上へハイヒールを脱ぎ捨てダイビングした。

「きゃー、ふっかふかー」

ゴロゴロ転がって喜ぶ。こういうところが自分には救いとも言えた。何に置いても負けている自分を保護者みたいな気持ちにさせてくれる。

錯覚なのはわかっているけれど、年下で学生でまだまだ頼りないけれど、キャリアウーマンを脱ぎ捨てた彼女が心を許すのは自分だけ。それは一星にとってこの恋を守り保つ大事なよりどころでもあった。

「いっせいー」

くしゃくしゃになったベッドの上でいわゆる女の子座りになった光姫が手招きする。誘い乗らないわけがない。ドアそばから三歩。光姫の横に腰を下ろすと愛しい彼女の頬に手を添えた。

暴れ回ったせいで額の周りにほつれ毛がふわふわして赤ん坊みたいだ。つやつやした唇に軽いキスを落とすと、親鳥にエサをねだるように唇を押しつけてくる。かき抱いて押し倒したくなる衝動をこらえる。

「ごまかさないでよ」
「んー？」
「十本。約束だろ」
「覚えてたんだ」

ニヤッと笑う彼女。だから侮れないんだこの人は。

「一星ってやっぱり変わってる。どうしてピンなんて取りたいの」
「誰でもいいわけじゃない。姫の髪をほどきたいんだ」
「変人じゃなくて変態かも」
「変態結構。あなた限定のね」

そう言いながら、彼女の頬を包み込んでいた両手を後ろ髪へと滑らせる。指先に触れるピンが一本。するっと抜いても何の変化もない。

「はずれ」
「ちぇっ。次だ」

男にはわかりづらい髪留めの理屈。ここぞという場所を止めているピンと、気持ちで刺しているピンがあるのだとか。二本目も同じく。三本四本でようやく落ちてくる髪。ふわりとかかる感触がまるでキスみたいだ。

光姫が言うには今は巻き上げる髪が流行りで、もっと簡単な方法もあるらしいが、その前から自分で四苦八苦して身につけたやり方が、時間はかかってもいいのだという。

「仕事に向けて気持ちを作っていく感じがね、戦に向かう武将みたいで。好きなの」

まだ見たことのない光姫の出陣式。いつかそれを毎朝見られるようになりたい。まだまだ口にはできない密かな夢だ。

「こっち？　そっちか」
「そっちが先かな」
五本六本七本と、手の中に増えていくピンとともに、一星の腕にかかる髪も増える。光姫はいつしかうっとりと目を閉じている。

「一星の指って気持ちいいわ。ヘアサロンの美容師みたい」
「ハサミはハサミでも俺のは花鋏だって」
「職種変えろなんて言ってないでしょ。指の話よ。ゾクゾクしちゃう」

こんな間近で目を閉じて言う台詞か。こっちのゾクゾクはどうしてくれる。いやもうちょっと。八本九本で両サイドの髪はほぼ垂れる。光姫の誘導もあって、メインの一本が最後に残る。

後ろ頭からうなじに顎に、そっと指を行き来させると、焦れたように光姫の目が開いた。

「何してるの」
「もったいなくてさ」
「早くしないと襲っちゃうわよ」

濡れたまなざしでそう言われて、抵抗できる男はいまい。

最後の一本を待ちかねたように、彼女の髪が一星の腕を包み込んだ。武装を解いた彼女をそのまま抱きしめてキスを奪う。髪ごと確かめる後ろ頭の形。何度でも。何度も。

「いっせい」

吐息のような声で理性は飛ぶ。ベッドに押し倒した拍子に、握ったままだったピンで手のひらを刺してしまった。
「いてっ」
ぱらぱら落ちる、十本のピン。

「あわてもの」

花のように笑う女性ひと　。
その花が自分の物であることを、まだ時々疑いたくなる一星だった。



明日もまた彼女はピンを刺す。
十本の武装は仕事への気合いと矜持だ。

今度、彼女にピンを贈ろう。
黒くて細くて目立たない武装のためのではない。
見るからに可愛らしい十一本目のピン留め。

たとえば小さな女の子に似合うような。

彼女はそれをしないだろう。
けれどきっと大切にしてくれるだろう、他の贈り物同様に。


光姫を抱いて束の間の眠りに落ちながら、一星は笑みを浮かべていた。



　　　　　　　　　　　　





　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜　The　11th　pin 　/　end　＞