夜も遅い商店街のアーケードで、妃菜は膝を抱えていた。

　また？
　そうよ、またよ。

　自分の声に自分でムッとする。育生と喧嘩して飛び出すと、ここに来るのが癖になっているみたいだ。もうこの先に帰る部屋はないのに。

　見上げたアーケードの割れ目には、十五夜に向かって太り始めた月。
　ピーマンみたいな形だ。

　あぁもう、バカね、私。
　そうよ、バカよ。

　自分の声に全肯定されて、妃菜はがっくりうなだれた。



　今日は日曜。妃菜は仕事が休みだった。
　夜、仕事から帰ってきた育生が、やけに機嫌良く言い出した。
　「そろそろ新居を探さないとな」
　「新居？」
　味噌汁を温めなおしていた妃菜は、驚いてふりかえった。

　「もうちょっと広いところ。君の帰る時間を考えると、レストランに近い方が僕も安心だし」
　「そりゃまあ」
　新居って言われて嬉しくないはずがない。妃菜の行き帰りを心配してくれたらなおさらだ。そうなんだけど。

　「……そんなに急がなくても」
　「は？」
　着替えを持ってバスルームへ行きかけた育生が、足を止めた。
　「急いでないだろ。君がここに来て二ヶ月だぞ」

　ズキッと胸が痛んだ。二ヶ月。
　もう九月。

　「これでも君の都合を考えてるつもりだ。ぼつぼつ職場にも慣れたと思ったから」
　「広くなれば家賃も上がるのよ？」
　「身の程知らずの贅沢をしようっていうんじゃない。不動産のプロなんだからちゃんと選ぶさ。それに家賃は僕が払う。君はレストランの開業資金に貯めて」
　「そんなこと言ってないでしょう！」
　妃菜はついに爆発した。

　「家賃をたかるつもりなんかないわ！　でも私はまだ、ほんとに雇ってもらえるかどうか、わからないのよ！」
　「だからそれは……妃菜！」

　それで飛び出してくるなんて。短気すぎるわ、私。
　わかってるけど、だって。
　もう、九月なんだもの。


　新しい職場のレストランの名前は『マムズ・ダイニング』。育生の祖母、志乃がプロデュースしている。開店当初から地産地消を唱えて、食材は極力地元にこだわり、繋がりを大事にしている。

　女性ばかりのスタッフも地元からの採用が主で、二十代から五十代まで幅広い年齢層が働いている。ランチとディナー、厨房とホール、チームは違っても仲間同士はおおらかで、言いたいことを言える自由な雰囲気だ。妃菜もすぐに打ち解けることが出来た。

　木造平屋の店内は天井の高いカントリー風。磨き上げられた木目が温かく清潔感がある。客席は四人掛けのテーブルと、窓際とキッチン添いに作りつけられたカウンター、合わせて六十席ほどだ。

　ランチはふらっと気軽に訪れ、ディナーは祝い事のため予約が入る店。地元に愛され、毎晩ほぼ席は埋まる。そういう有り様すべてが妃菜にとっては魅力的だった。惚れ込んだと言ってもいい。惚れ込んだからこそ、採用されなかったらと恐れていた。

　単なる知り合いとして紹介してもらったのは、プロデューサーのコネでなく、妃菜自身を評価してもらいたかったからだ。

　でも、評価してもらえなかったら？
　私なんかいらないって言われたら？

　これまでの二度の解雇（ファームを含めると三度！）は、妃菜から自信を奪っていたようだ。試用期間が終わりに近づくにつれて、ネガティブな考えばかりが頭にちらついた。

　育生にも漏らしていたから、わかってくれていると思ったのに。人の気も知らないであんな風に、もう決まったみたいに言われて、腹がたった。

　……そりゃあ新居は探さなきゃならない。
　式だって。

　田舎からは父が何度も電話して結婚を催促する。「まだそれどころじゃない」と言い合いになって、間に入る彼も責め立てられた。育生は一度も急かしたりしなかったけれど。

　なのに八つ当たりしちゃったんだわ、私。
　うなだれていたら足音が聞こえた。頭上から耳慣れた声が呼ぶ。

　「バカピーマン」

　悔しいくらい背の高い彼を見上げる。妃菜が飛び出したらどこを探せばいいのか、彼もわかっていたようだ。一日の仕事の疲れを、クシャクシャのワイシャツと頬ににじませていても、彼の目に怒りはない。苛立ちはある。

　「ほら」
　以前と同じように妃菜の腕を引っ張って立たせると、手をしっかり握って来た道を戻っていく。

　どこへと聞く必要はない。以前と違うのは、彼の部屋が妃菜の部屋になったこと、彼が妃菜の、妃菜が彼のものになったことだ。

　なのに私ったら進歩がないんだから。
　彫りの深い育生の横顔を見上げながら、妃菜はまた自己嫌悪した。


　部屋に戻ると、育生は妃菜を台所のテーブルに座らせた。まだ盛りつけていなかった夕食の皿をよけて、そこにＡ４サイズの封筒を置く。妃菜がきょとんとする間に、携帯を取り出して操作しながら、彼が言った。

　「ちゃんと話を聞かないのは君の悪い癖だ。先に言わない僕も悪いけど」
　「何？」
　「昼間、祖母に頼まれて受け取ってきたんだ。開けてごらん」

　首を傾げながら開けてみると、雇用契約書だった。……これって。
　「うそ」
　そこに携帯電話が差し出された。耳に当てると聞こえてきたのは。

　『妃菜さん？　志乃よ』
　「おばあさまっ？」
　『採用おめでとう』
　「……ほんとに？　ほんとですか？」
　『直接伝えたかったんだけど、特別扱いはいやだって言ってたから。厨房もホールもみんな、あなたを歓迎しているわ。よろしくねって』
　妃菜は声も出ない。

　『水曜はお休みよね、うちでお祝いしましょう。育生さんと来てちょうだい』
　「は、はいっ。あの、私、がんばります。ありがとうございます」
　『期待してるわよ。ああ、おじいさんもよろしくって。じゃあね』

　通話の切れた携帯を穴のあくほど見つめたあと、立ち上がって両手の拳を突き上げた。
　「やったあーーっ」

　うれしさのあまり、できもしないラインダンスの真似事をする。そこで育生と目があった。身をかがめた彼が悪戯っぽく眉を上げ、自分の唇を、それから妃菜のを指す。
　「謝罪と感謝は？」

　異議のあるはずがない。
　彼に飛びついた妃菜は唇を押しつけた。
　「……足りない」
　「えっ、んん」
　甘く軽いキスのつもりが、彼はキスを深くする。
　まずいやばい、まずい。
　これは本気の。

　「ねっ、まだご飯っ」
　「人の話を聞かないで、飛び出したお仕置きだ」
　「まっ、あっ、えーっ？」

　寝室に運びこまれてしまった。抵抗しきれなかったのは、妃菜にも自覚と罪悪感があったから。育生の思うつぼだったのかもしれない。

　夜空のピーマンがまん丸になる頃、妃菜は正式採用される。
　その喜びを育生と抱き合う喜びに重ね、妃菜はこの上なく幸せだった。





　　　　　　　





　　　　　　　　＜　green　pepper　in　night　sky　/　end　＞