  はつちょう |
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朝起きると、娘はまず水を汲む。 炊事とは別にたらいに汲む水は洗濯用だ。いつもなら起きがけにすませる仕事を朝餉のあとへ回した。ささいな時間の余裕が休みの実感となって娘の心を弾ませる。 朝餉の片づけの後、たすきがけ姿でたらいの前にしゃがみこむ。そっと沈める両手。 温ぬる んだ水に春を感じて、娘は頬をゆるませた。 今年の京は前の年よりも冬が厳しかった。風はいつまでも冷たく雪は溶けず。「暖かくならないねぇ」と誰も彼もが挨拶代わりに言い合いながら、春を待ちこがれていた。 有り難いことに季節は遅くとも歩みを留めない。ようやっと風は和らぎ、緑が雪の中から這いだし、桜は固く締め上げていた蕾を解いて花を灯し始めた。 水も、冬の刃のような鋭さが包み込むような温もりにとって代わり、やっぱり春を知らせている。透き通る水に淡い色すら見える気がする。 「よしっ」 気合いとともに娘は洗濯を始めた。今朝、米をといだとぎ汁で侍の道着や袴、肌着をもみ洗いする。結構力が要るがそんなこと言っていられない。 あの、世話好きの老師の内儀は娘の遠慮をどこ吹く風。稽古のあと侍の道着をせっせと洗い、寒い季節でも時に洗い張りまでやってくれたり。おかげで楽をしている。有り難いが申し訳なく思う。 今度何かお礼をと思いつく。何がいいだろう。自分に出来ることで何なら老師夫婦に喜んでもらえるだろう。考えながらの仕事はいつもよりずっと早く思えるから不思議だ。 晴れ渡った空の下、侍が作ってくれた物干し場に力一杯絞った洗い物を干す。毎朝のことなのに、仕事をしたという奇妙な満足感を覚える。たらいの水も無駄にはしない。 「さて。拭き掃除」 たまの休みはやることが多かった。ぼつぼつ畑も気になる。 侍は久しぶりに人を訪ねると言って、朝餉がすむとすぐ出かけていった。今のうちに家の中を片づけてしまえば、戻ってからは一緒にゆっくりできる。そんな風に時を限ると仕事が片づきやすい。忙しい毎日でそんな知恵も付いた娘だ。 温かな陽気に誘われて身体は動き、仕事は面白いように片づいた。気づくと昼を過ぎている。侍はまだ戻らない。手ぬぐいで汗を拭うと鉄瓶から白湯を湯飲みに汲んで、土間の上がり口に腰を下ろした娘は一息ついた。 小さな家の中はさっぱり拭き清められ、気持ちがいい。ゆるやかに流れて抜ける風を感じる。洗い物が乾いたかもしれない。娘は湯飲みを流しの桶につけ、裏手の物干し場へ向かった。 ゆったりはためく道着と袴。だが、娘が口元をほころばせたのはそれが理由ではなかった。ひらひら花びらかと思ったら。 蝶だった。 今年初めて見る小さな羽。まさしく花びらと見まごう姿が、道着の上、下。袴の隙間。手ぬぐいの端をひらひら風に乗り、風に流され、風に遊ぶ。娘が干した洗い物と戯れているように見える。 笑みを浮かべ娘はそろりそろりと近づいていった。 侍が遠目にした娘はあたかも舞っているように見えた。細い華奢な身体がくるくると回り、翻り、踊る。手に扇がないのが不自然なほど。 春が来ると人は浮かれがちだ。毎年娘も桜の頃は妙に落ち着かなくなると知っているがそれにしても。立ち止まった侍は、娘の首筋を掠めた何かに目を細めた。あれは。 同じ時にこちらへ気づいた娘が笑顔になった。躊躇なく表される喜びが矢のように重く、侍の胸を刺した。ようやくこの暮らしにふたりして慣れたところ。落ち着いたところだというのに。 もしかしたら。 その時は？ 首を傾げた彼女に侍は笑みを作った。悟られまい。 まだだ。まだ平気だろうきっと。 「おかえりなさい。…何かあったの？」 「いや。ほら土産だ」 侍が差し出したのは小さな包み。 「団子だ」 「団子？」 「懐かしいだろ」 受け取った娘は侍の言葉に思い出す。出会った直後、一緒に食べたのも団子だった。 「江戸も春よね」 そう呟いた娘の髪をかすめ、下りてきた蝶がひらひらと誘う。遊び足りないとでも言うように。 「一人で何を踊ってるのかと思った」 「え？ あ……やだ」 つい興じたさっきの自分を思い返して恥ずかしくなる。 「初蝶か」 「はつちょう？」 「その年、初めて見る蝶のことだ」 ふたりの視線の間。もつれる糸にも似た軌跡を描き続ける蝶は、軽やかだが弱々しい。 「覚束ないな。落ちそうだ」 「楽しそうでしょ」 「……そうか」 感じる思いは、見る者の心の有り様に根ざす。蝶の舞を楽しそうと思うのは春を喜んでいるから。不確かな軌跡を危ぶむのは、春に不安を覚えているからだ。表と裏のような心の差に娘は気づいていない。気づかれていないことに侍は安堵する。 まだ。 今少しこのまま。 蝶に気を取られている娘に歩み寄った侍は、後ろから腰を抱き寄せた。驚いて、でも背中を預けながら見上げてくる娘の、おとがいをとらえて口づける。驚きのまま開いた口の中へ差し入れた舌で、舌をあまやかに絡め結ぶ。 突然の行為に娘はなすすべもなく眼を閉じた。団子の包みを落としたことにも気づかず、まぶたの裏でなお軽やかな軌跡を追いかける。 あの蝶はきっと、洗い物をひるがえした風に乗り、咲いたばかりの花を求め行くに違いない。侍に引き寄せられる自分のように。 ふたりの向こう。 真反対の思いをあずけられ、だからといって留まることもできず。 初蝶は時を刻んで、よろめき舞い続ける。 淡く霞む、春のきざはしを。 ＜ hatucho / dnd ＞ |
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