「ねえ、起きて」
　その声は、突然聞こえた。どこからともなく。
　「起きなさいってば」

　気がつくと彼女はそこにいた。
　内裏びなの女びなとして、台の上に飾られている。
　すぐそこが床だ。

　磨かれた床の向こうに、大きなテーブル、たくさんのイスも見える。その先にあるのは台所だろうか。
　横を見上げると長いカーテンが下がり、その隙間からガラスサッシがのぞく。外は日が昇ろうとしているような。

　初めての光景なのに、どうしてわかるのかしら。

　「……ここは、どこ？」
　「あなたの家よ。ようこそ」

　返った声の方を肩越しに振り仰いで、驚いた。
　後ろにもっとお人形が並んでいる。
　ひな人形がすぐ上に二組、さらに上にも。

　「いよいよデビューね。待っていたのよ」

　話しかけてきたのは一番上に飾られている、フランス人形だった。
　金色の髪、青い目はちゃんとまつげもある。フリルのついたピンクのドレスを着て、レースの靴下とベルト止めの靴をはいた足。
　自分とは全く異なる人形で、面食らった。

　「あなたは、誰？」
　「私はベル。ここのリーダーってところかしら」
　「古株って言えばいいのに」
　「怒るわよ、藤びな。古いなんて冗談じゃないわ」
　「おおこわ」
　「ベル、はりきっているね」

　ベルの横には、茶色の髪に羽根飾りのついた帽子をのせ、金糸銀糸の上着にズボンを身につけた、りりしい男の人形がいた。腰の帯には剣をつりさげ、ブーツをはいている。まるで王子様、と思ったら。

　「もちろんよ、プリンス。二年続けて仲間が増えたんだもの、はりきらざるを得ないわ」

　プリンス。
　ほんとに王子様なのかしら。
　おしゃべりはその間も止まらない。

　「減ってばかりで寂しかったものね」

　藤びなと呼ばれたのは、ベルとプリンスの右下に飾られている立ち雛の、女びなだ。
　陶器だろうか。描かれているのは華やかながらも落ち着きのある藤色の着物で、面長の顔に賢そうな目をしている。彼女の隣、大きな男びながうなずく。

　「五組で並べられていた時代もあったね。にぎやかだったな」
　「五組？　それは壮観だったでしょう」

　藤びなの横に並んでいるもう一組の、女びなが言った。自分と同じ、座っている内裏びなだ。上品な顔立ちで、銀の地に群青の縫い取りした衣装が美しい。優しく声をかけてくれる。

　「こんにちは、あおびなよ。私たちもここでは新参者なの」
　彼女の男びなも冠を揺らした。
　「ぼくたちはここに来る前はずっと、二組で並べられていたんだ。にぎやかになって嬉しいよ」
　「でも」
　あおびなが少しだけ眉を曇らせる。
　「残してきた千代びなはどうしているかしら」
　するとベルが励ますように言った。

　「なに言ってるの。初びなに乙びなが行ったでしょ。あの二組も私たち同様、おしゃべりな人形だわ。それに今年は」
　「そうさ。僕たちに新入りが加わったように、向こうにも新入りが加わっている」
　プリンスの力強いの言葉に、あおびながうなずいた。
　「そうだったわ。ええ、千代びなもきっと喜んでいる。私たちの消息も聞けるしね。良かった」

　黙って聞いていられなくなって、おずおずと尋ねた。
　「新入りって、私たちのことなの？」
　ベルがうなずいた。
　「そうよ」

　確かに彼女は真新しかった。衣装は他の人形たちよりもずっと淡く、紫の地にピンクが散りばめられたパステル調で、一番下の段に男びなと並べられている。
　それにしても、フランス人形、立ちびな、内裏びなといった顔ぶれが一緒なのは、不思議に思えた。

　「みんなずいぶん形も衣装も違うのね？」
　「そうね、特にベルとプリンスはね」
　藤びなが笑うと、ベルが言った。

　「私は元々、持ち主の母親の形見の人形なの。持ち主のおばあさまがプリンスを作ってくださって、一緒に飾られるようにしてくださったのよ。もう何十年も前ね」
　「まあ。あなたはいくつなの？」

　思わず尋ねたら、ベルにきっとにらまれた。
　「いくつ、ですって？」
　「ベルったら、新入りを怖がらせちゃだめよ」
　「怒らないで、葵の娘のおひなさまなんだから」
　藤びなが叱り、あおびなが笑いながらなだめる。プリンスたちがクスクス笑っている。

　横で聞いていたのだろう、隣の男びなが改まった様子で言った。
　「僕たちはまだ知らないことばかりなんです。大目に見て、いろいろ教えてください」
　「……悪かったわ。年の話は禁句なの、いい？」
　ベルがしぶしぶ謝り、それでも念押しする。
　自分が言われているのはわかったので、おとなしく謝った。

　「ごめんなさい」
　「いいの。私が短気だった。ちょっと興奮してるのね。こんなににぎやかになるなんて、思ってなかったもの。ねえ？」
　「そうだね」
　プリンスの声にはいたわりと優しさがあった。
　ベルが改めて尋ねてくる。

　「新入りさん、わかっている？　今日はあなたたちのデビューの日よ」
　「デビュー？」
　「あなたたちは、去年産まれた女の子、紫ゆかり　の、初節句のために選ばれたおひな様なの。彼女の幸せと健康を守るのが役目よ」

　自分の使命を初めて知った。紫のために選ばれて、紫を守る。
　誇らしさに、胸がドキドキする。
　「紫のおひなさまだから、名前はゆかびな、ね」
　言い渡されて、コクコクとうなずく。

　「去年、あおびなが加わった時も楽しかったわ。今年はきっと、もっと盛大になるわね」
　「葵が幸せそうで、私も嬉しいわ」
　「紫も来月には一歳よ。去年はお腹の中だったのに、早いわ」

　まだ意味のわからない話ばかりだったが、聞いているだけで良かった。これからたくさんの話が聞ける。そう思うと嬉しくなった。

　「わたしの持ち主にはいつ会えるの？」
　そう聞くと、ベルが厳かに言う。
　「もうすぐよ。今日のパーティーは紫が主役だもの。一緒にたくさん写真が撮れるわ」
　「ほんと？」
　わくわくしていると、ベルが言った。

　「残念、すっかり日が昇っちゃった。そろそろみんなが起きる頃よ。おしゃべりはまた明日ね」
　こうして話せる時間は決まっているらしい。なんだか名残り惜しくて、ゆかびなはもうひとつだけ聞いた。
　「ベル？　あなたの持ち主はなんて名前なの？」
　くすくすみんなが笑う中で、ベルの声は自慢げだった。

　「彼女は私とそっくりなの。もうすぐわかるわ」

　その言葉を最後に、場はしんと静まり返った。ゆかびなも口をつぐむ。
　足音がした。
　誰かが階段を駆け降りてきて、リビングの扉が開いた。

　「あら、話し声がしたと思ったのに、気のせいだったみたい」

　ぱたぱたとスリッパが近づいて、ゆかびなの前に女性がしゃがみこんだ。豊かな髪とぱっちりした目と、赤い唇。
　ほんとにそっくり。

　「葵さんと藤尾とキヌさんとで、さんざん迷った甲斐があったわ。やっぱりこのおひなさまで正解ね」

　ゆかびなをじっくりと眺めながらそう言うと、小町は満足げにほほえんだ。それからどの人形にも笑みを向ける。

　「みんなも素敵よ。ベルとプリンスは、にぎやかになってさぞ嬉しいでしょう。私と同じ。さて、今日は忙しいわ」

　それが合図のように、また階段を降りてくる足音が重なって聞こえる。
　「おはようございます」
　「小町さん？　台所に入らないでよ」
　ベルとそっくりの女性が、ベルのように不満げな顔をする。

　「お茶だけよ、お茶だけ。その前に葵さん、紫をだっこさせてぇ」
　「紫は俺のやって」
　「……光くん、今日は出勤だよね？」
　「ああ〜、なんでひなまつりは国民の休日にならんのや」
　「光ったら。私だって出勤よ。夜まで我慢」
　「紫とおりたいぃい〜」

　にぎやかに行き交う声と顔の主と、人形たちと重ね合わせる。無邪気な笑い声をたてる赤ん坊が、紫だろう。
　ゆかびなはおすまししながら、思った。

　みんな、持ち主とよく似てるみたい。
　紫はどんな子になるのかしら？
　私も紫と、似るのかしら？
　どうぞ、幸せになりますように。



　ゆかびなの、初めてのひなまつりは、始まったばかりだった。





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