母が三人目を妊娠したと告げたのは、銀が幼稚園に入った頃だ。
　聞くやいなや、父は近所中を呼び集めた。

　銀にとって父は尊敬と憧れの対象だった。大工の棟梁で、火消しの長で、祭りを仕切る。喧嘩も強くて格好良い、男の理想。

　そんな父が満面の笑みで得意気だ。
　「三人目だぞ、めでてえ！」
　「やったな棟梁！」
　「お手柄だ！」
　仲間が注ぐ酒を繰り返し空ける父は、すでに相当飲んでいる。

　「赤ん坊って今、どこにいるの？」
　幼い銀の問いに答えてくれたのは、近所の忠治だった。
　「母ちゃんの腹ん中さ」

　銀は驚き、振り返った。はしゃいで飲んで騒ぐ父と、酒だつまみだと座る暇もない母を見比べ、戸惑う。赤ん坊がそのお腹にいるというなら、手柄を立てたのは母の方で、母がほめられるんじゃないのか？

　小学生の姉が休むよう声をかけても、母は笑うだけ。
　「大丈夫、母さんも嬉しいのよ」
　確かに母の顔は輝いていた。赤ん坊はお腹の中で、宝石も一緒に抱えているのだろうか。

　銀だって嬉しかった。今までの自分は弟だったけど、赤ん坊が産まれたら兄ちゃんだ。ちゃんと面倒見よう、姉みたいに。弟と妹、どっちだろう。どっちでもいいさ。喜ぶほどさっきの当惑が戻ってくる。

　もっと母を大事にしないと、いけないんじゃないか？

　それまで感じたことのない反発心が湧いた。赤い顔で酒臭い父に、どんどん腹がたってくる。だからって何をどう言えばいいのかわからない。

　苛立ちで紛れに、父の背中を蹴飛ばそうとしたら、ひょいとつかまって膝に乗せられてしまった。酔ってるくせに勘だけはいい。

　「なんだ銀、おめえも呑むか？」
　「いらねえっ」
　「まだ無理か。じゃあ食べろ。おっきくなれ。兄ちゃんになるんだからな。弟と妹、どっちがいい。男か」
　「おと、ううん、妹がいい、かも……父ちゃんは？」

　父は男の子を欲しがると思った。妹と言ったのは意地悪のつもりだったが、父の答えは拍子抜けするほどあっけらかんとしていた。

　「どっちだってかまやしねえ、神様の言うとおり、だ。がははっ、元気な子なら御の字だあな。違うか？」
　「違わない」
　やっぱり父は格好良い、そう思ったのに。

　「よし。　千代！　酒が足りねえぞ！」

　（クソ親父！）

　初めて心で毒づいた銀の気持ちを、代弁したのは姉だった。台所から出て来た葵は腰に手を当て、しかめっ面で父をにらむ。

　「父さん、飲み過ぎ」
　「るせえっ、足りないつってんだ」
　「もうないよ、自分で買ってきたら」
　「なんだとお？」
　「母さんが疲れっちゃうでしょ！」
　「ちょっと葵」

　どっと場がわく。あわてる母を背にかばうようにして、父に対峙する小さな姉を、銀はほれぼれと眺めた。格好良い。もしかしたら葵は父より格好良いかも。

　誰かが助け船を出してくれた。
　「俺俺、俺が行ってくっから。なあ千代さん」
　「すみませんねえ」
　「棟梁も、総領娘にゃ勝てねえってことだな」
　「ちぇっ」

　小さく舌打ちした父が銀の頭に顎をのせた。膨れ面になるのがわかる。すかさず母が、父の好きな煮物を運んできた。大根のそぼろ煮は餡がとろとろだ。
　「これこれ、うまそうじゃねえか」
　父の機嫌はそれで直る。呆れるくらい単純だ。

　葵が銀の分も持って来てくれた。ものすごく美味しかった。
　父と争うように食べたあの味。


　思い出して苦笑いになった。結局似たもの親子だったな。そぼろ煮は今も好物だけれど、覚えているのはもう母でなく、姉の味だ。

　葵は覚えているだろうか、あの日のことを。
　歴史は繰り返す、か。

　酒盛りの真ん中で、葵と光を左右に従えた父が大笑いしている。
　真っ赤でご機嫌の顔は、あの夜そっくりだ。

　夕方、そろってアパートを訪れた二人。
　出されたお茶もそこそこに、光が大声で宣言した。
　「おめでたや！」

　テーブルを囲んだ他の四人、鋼と銀鉄と初音は瞬きした。驚きすぎて思考が停止する。言わずもがなのことを鉄が確かめた。
　「……あんた、じゃないよな？」
　「葵に決まっとるわ、アホ」
　「ほんとか、葵？」

　ようやく理解が追いついて、鋼が乗り出すように聞く。葵が恥ずかしそうにうなずくと、椅子を跳ねとばして仁王立ちになった鋼が、拳を突き上げて吠えた。

　「よっしゃあああ、でかした！」
　「お父はん、ほめるんなら俺も」
　「でかした、電球！」
　「……ほめられた気ぃがせん」
　「ねーちゃん、やった！」
　「葵さん、良かったわね」
　はしゃぐ鉄と初音の向こうで、父は電話に飛びついていた。

　そしてアパートは足の踏み場もなくなった。下町の繋がりだけでない、父が持つある種のカリスマ性は健在だ。それを悔しいと思ったこともある。こんな奴がどうしてこうも慕われるのかと。

　銀は父を尊敬している。認めてもいる。けれど決して万能でも偉いだけでもない、困ったところも嫌いなところもあると、初めて気づいたのがあの夜だった。

　今夜の支度は初音がしてくれた。自分も鉄もいるから、葵の体を心配をする必要もない。なのに湧いてくる苦い思いは、昔、母のために何も言えなかった自分への悔いか。

　そのさらに奥に潜んでいるもの。

　「銀さん？」
　難しい顔をしていたのだろう、初音がのぞきこんでくる。
　「どうしたの」
　「何でもない」
　ごまかした銀に、初音がつぶやいた。
　「光が幸せそう」
　「葵もな」
　葵の笑みに母が重なる。

　「子どもが出来たらそりゃあ嬉しいわよね」
　その声の背後にあるものを、銀は聞き逃したりしない。
　「授かり物だ。あわてることないさ」
　ほっと緩んだ初音の顔にも、母が重なった。

　いずれは自分たちもと願っている。だが、鉄を妊り産んだあと、着実に弱っていった母。

　どれだけ願って祈っても、失うことはある。
　銀の中に棲みついている怖れ。


　大丈夫だ。
　誰も失ったりしない、絶対。
　絶対に。


　にぎやかな宴席の姉を、初音と見守りながら、ひたすら銀は念じていた。





　　　　　　　　　　　　　　　　　＜　absolutely　　/　end＞