桜のつぼみもふくらんできた。
春が来る。保育園に入る日も近い。
今日はコチママとお出かけだ。

なのに、夕花は気持ちが晴れなかった。
だってママが一緒じゃない。


この頃、ママは寝ていることが多い。
頑張って起きても、すぐ気分が悪くなるらしい。
ごはんもあまり食べていない。

「心配しないで。夕花はいっぱい食べなきゃ」

そう言いながらもつらそうだ。
パパも気にしている。でも時々嬉しそうに見える。
ママが辛そうなのにどうして？

ちぐはぐな感じが夕花を余計に不安にしていた。
ママのこと心配じゃないのかな。
パパは夕花の、最初の王子様なのに。

背が高くていつでも優しくて、かっこいいパパ。
「夕花はパパのお嫁しゃんになる」
そう言ったら嬉しそうだった。でもそのうちに気がついた。パパのお嫁さんはママ、パパはママの王子様なんだ。

がっかりした夕花の次の王子様はひーちゃんだった。ママの弟で夕花の叔父さん。舌の回らなかった夕花に「ひかる」は呼びづらいから、ひーちゃんて呼んでいる。

ひーちゃんのお嫁さんになる、という誓いが守られなかったのは、別の人をお嫁さんに選んだから。お嫁さんはお姫様ではないが、とてもきれいで優しそうな人だった。彼女を見る目がすごく幸せそうで夕花はあきらめた。

悲しかった。涙がぽろぽろこぼれて、胸が痛くていっぱい泣いた。
まさにその時だった。

「手ぇ出しな」

夕花の手のひらに、色とりどりの甘い星を振り出してくれたのは、それまで怖い顔していたお嫁さんのお父さん。「コーパパ」と呼ぶほど仲良しになったが、今まで夕花の周りにこんな人はいなかった。

ちょっといかめしくて大きな声も怖い声も出す。乱暴な言葉も悪い言葉も使う。でもコーパパのくれる金平糖はとっても甘いし、夕花をすごく可愛がってくれる。パパともひーちゃんとも雀ちゃんとも違う、まるで大きい木みたいな。



「大きい木ね。うまいこと言うじゃない、夕花」

夕花と手をつないだコチママが笑った。コチママはママのお母さんで、夕花のおばあちゃん。でも昔話に出てくる「おばあさん」とはぜんぜん違う。ママのお姉さんに間違えられるくらいだ。

二人が立っているのは繁華街の交差点だった。コーパパと待ち合わせている。コチママとコーパパと、ほんとはママも来るはずだったのに、やっぱり具合が悪いって来られなかった。

「コチママぁ」
「なに？」
「ママ、病気なのかなあ」
コチママを見上げると、困ったような顔になった。
「そんなことないわよ。ママは大丈夫」
「ほんと？」
「コチママは嘘つきません」
それはほんとだから、ちょっと安心する。

「コーパパ、遅いねえ？」
「そうねえ……ああ、来た来た」
コチママが交差点の向こうを指さす。
夕花が背伸びすると、コーパパが手を振るのが見えた。

「きたあ」

コチママと手をつないだままでぴょんぴょん跳ねた。縦に斜めに人が行き交う横断歩道を、渡って来るコーパパに手を振る。いつものように着物姿。

「待たせたか」
「夕花、ちゃんと待ってたもん」
「春から保育園に入るんだもんなぁ」
「うんっ」
「今日はチョコのお返しと、お祝いだ」

コーパパが二人を連れていってくれたのは、大きなホテルのスイーツブッフェだった。甘いお菓子がたくさんたくさん食べられるところだ。

「うわあ」

夕花の目は輝いた。だってすごい。どこを見ても美味しそうなケーキやゼリーだらけ。パイやムースにフルーツもたくさん。見るだけでヨダレが出そう。

「こりゃあれだな、聞きしに勝るってやつだ」
「うーん素敵」

見上げると、コーパパは太い眉の端をぽりぽりかいている。コチママは夕花とそっくりに目を輝かせている。

「こういうところへ自分から来ようとはな。人生ってなぁ面白えもんだ」
「なぁにそれ」
「覚悟はできたってことさ。夕花、どれにする」
「んっとねえっとね、ぜええーんぶ！」
「そうこなくちゃな、よし、突撃だ」
「とっつげきぃいー」
「ちょっとー、私をおいてかないでよ」

三人でたらふく食べた。初めはそれぞれお皿にたっぷり。二回目は二つずつ選んで、コーパパはそれでやめてしまった。

「酒なら負けねえんだが。おりゃあ茶ぁもらってくらあ」

夕花はコチママと三回目を取りにいった。綺麗な色のマカロンとイチゴの載ったパイ。あっという間に食べてしまった。マカロンもイチゴもママが大好きなのに。そう思ったら不安が戻ってきた。

「どうした夕花」
「……ママ、大丈夫かなぁ」
「夕花ったらまた？」
「だって」
「おっかさんの具合が悪けりゃそりゃ心配すらぁな。病院には行ってんのかい？」

コーパパが聞くとコチママがまたあの顔をする。困ったような。

「なんだよ」
「だから……夕花、これも食べてくれる？」

コチママが差し出したのは食べてみたかったブリュレだった。「うん」とスプーンを手に食べ始めると、コチママとコーパパが何か話している。

「……んだ、じゃあ話してやりゃあ」
「そういうのは親の」
「んなの誰が言ったって一緒だろ」

何だろうと思いながらもブリュレが美味しい。せっせと平らげて、さすがにそれで入らなくなった。お茶をすすっているコーパパにお腹を叩いて見せる。

「ゆーかのお腹、ぱんぱーん」
「お相撲さんみたいにか」
「おすもーさん？」
「ひがぁーしぃ、ゆうかやまぁってな。なんだ知らねえのか。じゃあ今度は国技館にするか」
「こくっかぁん？」

夕花が首を傾げると、コチママも一緒に傾げている。

「私も行ったことないわ」
「五月だな。式も引っ越しも終わってちょうどいい頃合いだ」
夕花は耳をぴんと立てた。

「引っ越し先は決まったの？」
「手頃な空き家がねえからさ。貸しアパートの部屋を二つ」
「二つ？」
「新婚夫婦と一緒じゃ可哀想だろうよ」
「お引っ越し？　コーパパお引っ越しするの？」
夕花がどんなにあわてているか、二人とも気づかない。

「おうよ、まだ荷物もなんもしてねえ。葵がうるさいのなんのってよ、自分がいるうちに片づけろってもう」
「お引っ越しだめえ！」
突然大きな声で叫んだので、ふたりが驚いてこっちを見た。

「コーパパどっか行っちゃうの？　やだやだ、行っちゃだめえ」


夕花は軽いパニックだった。

今まで大好きな人がいなくなったことはない。パパのおじいちゃんとおばあちゃんは元々遠くにいるけど、会いに行ける。ひーちゃんは遠くに居たのが戻ってきた。近くなることはあっても、遠くなった人はいなかった。

ママも具合が良くないのに、コーパパがいなくなったら。全く関係のないことが、夕花の中でわけもなく結びついて、大きな不安に変わる。イスからすべりおりてコーパパの膝によじのぼると、首っ玉にかじりついた。

「やだあ、どこにも行っちゃだめー！」

泣き出した自分に自分で驚いた。
もう大きいのに。もうすぐ保育園に行くのに。
でもやだ。やだもん。

「夕花、おちついて」
「ゆうか」

低い声がコチママの心配そうな声を遮った。耳元で響く、低いけど太くて優しい、夕花を安心させる声音。

「おりゃあどっこもいきゃしねえよ」
どっこもいきゃしねえよ。

ざわざわしていた心にゆっくりと言葉が届いて、夕花はなんとか泣きやもうとした。鼻をすすりながらコーパパを見上げる。

近くで見ると目元や口元にしわがある。日焼けした顔と太い眉。怒鳴るときは怖いけど、今、夕花を見る目はとってもとっても優しい。懐から手ぬぐいをだして涙を拭ってくれる。

「ほんと？」
「うちの家をな、建て替えるんだ。住んでたら建て替えらんねえだろ？　だからその間近くに移るだけさ。その家だって俺が建てるんだぜ？　どっか行ったら建てらんねえじゃねえか」
「はーちゃんがお嫁に行く家よ？　遠くに行ったりしないわよ」

コチママも言ってくれたのでやっと納得できた。ほっとしたがすぐには涙も止まらないし、すんすんと鼻水が出てしまう。コチママがティッシュを当ててくれる。

「それからな、夕花のおっかさんは病気じゃねえぞ」
「ちょっと」
「うるせぇな、俺が叱られてやるからさ」
「そういう意味じゃ」
「おっかさんのお腹には赤ちゃんがいるんだとさ」

きょとんとして涙も止まった。びっくりして声も出なかった。
赤ちゃん？　赤ちゃん。
ママが赤ちゃんを産んだら。

「夕花、お姉さんになるの？」
「おうよ。お姉さんだ。なれるか？」

夕花の胸にあった不安が消える。ぱあっと泣き顔が笑顔に変わった。

「なれる！　なれるもん！」
「赤ちゃんが無事に産まれるまで、おっかさんはてぇへんなんだ。初めのうちは特にな。保育園の支度とか夕花の世話とか、やりたくてもなかなかできなかったりするだろ。我慢できるか？」

「できる。夕花、自分でやれるよ、お姉さんになるんだから」
「あぁ夕花はできるさ。決まってらぁな。だからご褒美だ」

コーパパが今度は、金平糖が入った入れ物を取り出した。たくさん食べたスイーツとは違う甘さ。噛みしめているとコーパパが呟いた。

「ありがとよ」
「……なにが？」
大きな声出しちゃった。
泣いちゃったのに。

「遠くに行かないでって言ってくれてさ」
夕花を見おろすコーパパは、見たことがないくらい優しい目をしている。
「嬉しいもんだな」

夕花は胸がドキドキした。感じたことのない胸のドキドキ。
確かめなくっちゃ。

「コーパパのお嫁さんはもういないの？」
「これ、夕花」
コチママが叱るように呼ぶが、コーパパはうなずくだけ。
「ああ、ずっと昔に死んじまってな」
「コチママのお婿さんみたいに？」
「そうさ」
コーパパがコチママを振り返って、ほのかに笑う。その意味はわからないが、夕花は決心した。

「だったら、夕花がコーパパのお嫁さんになる！」
「……へえ？」
「ばっ、ゆ、ゆうか？」
コーパパの目が丸くなって、コチママの目がつり上がった。

「ちょ、何をバカな、コーパパは夕花のおじいさんみたいなものよ？」
「コーパパはおじーさんじゃないもん。コチママだっておばーさんじゃないでしょ」
「そうじゃなくて、王子様はもっと若くてかっこいいものでしょ」
「王子様じゃなくても、王様みたいにかっこいいもん。王様だもん。夕花は王様のお嫁さんになるの！」
「ゆうかーっ」
「くくくっ、あーはっはっ」
「笑ってないでなんとかいいなさいよ！」

かみつかんばかりにコチママが怒鳴っても、コーパパは笑っている。

「棟梁と呼ばれて久しいが、王様たぁ大きく出たな。おまけに夕花がお嫁さんか？　そりゃ大歓迎ってもんだ」
「うん、お嫁さん！」
「ちょっと！」

「コチママ、コーパパをいじめちゃだめえ」
「夕花ったら！　桐子に叱られちゃうじゃないの」
「だから俺が叱られるって」
「ママは怒ったりしないもん。赤ちゃんいるから大事にするもん」
「そうじゃなくて」
「そうだよなあ、夕花はわかってる」
「わかってるもーん」
「二人とも、いい加減にしなさいよ！」

コーパパに抱かれてほおずりされる。ざらざらした感触が痛いけど気持ちいい。コチママが引きはがそうとするから抵抗すると、コーパパがまた大笑いする。

なんでコチママはこんなに怒ってるんだろう。
変なの。でもいいや。

ママは病気じゃない。
赤ちゃんがやってくる。お姉さんになる。
だからパパも嬉しかったんだ。教えてくれたら良かったのに。

教えてくれたのはコーパパ。
夕花はコーパパのお嫁さんになるもん。
王子様じゃなくて、王様を見つけたんだもん。


不安はもうない。
文句を言い続けるコチママと、笑い続けるコーパパに囲まれて、夕花の心は桜よりも早く咲きほころんでいた。





　　　　　　　　　　　　　　　　＜　King＆Yuka　　/　end　＞