食卓がうめく。
どこかで読んだ文章を初音は思い出した。

誰がどんな内容で書いたのか、全く覚えていない。ここで使うのが果たして正しいのかどうかわからないが、とにかく。

今朝、うちの食卓は間違いなくうめいている。
上も下も周りも。
圧倒的に。


かつては七人で食卓を囲んでいた。
父が亡くなって六人家族になったが、母はずっと調子が悪くて食卓に六人そろうことはなかった。光が家を出てから五人で食卓を囲めるようになった。

やがて姉二人がそれぞれ結婚し、今年はじめに光が戻ってきて、今は四人家族だ。しかし仕事や学校で忙しく、そろって食卓を囲むのもまれというのが現状だ。


今朝、ここには八人いる。
八人。
父がいた時よりも多い。おまけに半分は男性だ。


初音の家族は食べても太らない、同性から羨うらや　まれ恨まれる家系で、食べることに対して誰もが情熱的だが、世の中には比べものにならないほどの食欲があると知った。情熱を通り越して破滅的だ。

大の男が四人そろうとこんなに食べるものか。光までいつもの倍の食欲だ。ううんと首を振る。ようやくいつもどおりなんだわ。このごろ兄がろくに食べようとしないので心配していたのが嘘のようだ。

良かった。それに比べたら、一週間分の食料が消え失せようとなんてことはない。一週間は大げさだろうか、せいぜい三日分？　四日分？　まだ八人のうち三人は台所にいるというのに？

どうってことはないわよと自分を無理矢理納得させた。日本が食糧危機に至るにはまだまだ時間はある。あって欲しい。


もちろん小町は食卓にいる。鋼が眉を吊りあげたが、説明するのは面倒だし危険だ。いつもなら光も手伝ってくれるのだが、葵が代わりを買ってくれた。手際はもちろん、頭のいい彼女は人の家の台所でも、おたついたりしない。

それにしてもとため息になる。

和食、洋食は単なる個人の嗜好だと思っていたが、食べ盛りの男性の食事で大事なのは量だと、その点ではパンよりもご飯の方が簡単だし腹も満たされるのだと、今日はっきり教えられた。

あいにく、初音の家では朝はパン食だ。おまけに男性たちはクロワッサンとかテーブルロールはおやつだと思っているのか、こっちが何か作る前に食べ尽くしてしまった。

それから兄と恋人とその弟は、トースターがのべつまくなしにチンチンとはじき出す食パンを待ちかねたように平らげている。銀が食べない人だとは思ってなかったが、改めてその食欲に圧倒される。一人三枚？　四枚？　一斤？　パン屋が近くにあることにこんなに感謝したことはない。


一方彼らの傍らで、恋人の父は白米を掻き込んでいた。パンを買いに行くならと葵に頼まれたレトルトパックのご飯。それから納豆、お茶漬けに梅干しなどなど。鋼は納豆で一杯、梅干しで一杯、三杯目を乙女の作った目玉焼きで食べている。レトルトパックと電子レンジは偉大だ。この先、何度も褒め称えるだろう予感がする。


初音はさっきから山のように野菜を切り続けている。乙女はコンロに張り付いて、ベーコンや卵料理、炒め物を作り続け、葵はサラダとゆでたジャガイモでスープを作っている。

「汁物があるとおなかが膨れるのよ」

なるほど、これも生活の知恵だ。遠からず、あそこで食べまくっている一人と食卓を構える羽目になるかもしれないと思えば、育ててきた人の教えは貴重だ。乙女ときたら、葵の言葉をできるなら一言一句録音したそうな顔つきだ。

「鉄ちゃんて好き嫌いないでしょ？」
「あったら勘弁しないもの」
「お父さんは？」
「好き嫌いはないけど、洋食は苦手ねぇ」
「うわ。どうしよ」

どうしよ、ってどういう意味だろう。
どうするつもりかしら。
ねえ、本気？　ほんとに？

姉二人が結婚した時はまだ二人とも学生だったせいか、純粋な祝福だけだったのに、兄の結婚はいろんな意味で、妹二人を混乱の渦に放り込んだ。初音はいまだに浮いているだけだが、乙女はすでに抜き手を切っているようにも見える。

乙女の頭の中にはどんな未来がイメージされてるのか、聞きたいような聞きたくないような。複雑だ。とりあえず保留しよう。包丁で指を切ったら仕事に差し支えるし。


ボールに山盛りにしてドレッシングであえたサラダをどん、と食卓に置くと、兄と銀鉄が手を伸ばして半分消えた。マジック？　魔法？　ちーんとまたトースターが鳴って、これなら大丈夫とトースター係を任された小町がまとめてバターを塗りたくる。皿に載せたとたんにそれも消える。

「初ねぇ、見ない方がいいってば」
立ち尽くす初音を乙女がひっぱった。
「目が回るから」
「確かに」

葵がクスクス笑いながら、カップにスープを注いでいる。心の底から尊敬してしまう。あのうち三人を食べさせてきたなんて、人間業とは思えない。神様？
「初音ぇ、パンがなくなるー」
母の言葉はさらなる驚異だ。
「うそっ。さっき四斤買ってきたでしょ？」
「これで最後」
ここにいるのは人間？　虎？　ゾウ？　ブラックホール？
自分の声が尖っている。

「葵さん」
「なに？」
「どうやってたの、いままで」
トレーにスープを五つ乗せて、葵が肩をすくめた。
「なるようになるの」
「乙女ぇ、パンとぉ、ご飯も？」
今度は乙女を呼びながら、母が鋼をうかがっている。

「ああもう、鉄っちゃん買ってきなさいよっ」
「俺、場所しらねえもん」
「ええて、俺が」
「小町さん、パン係なんだから買ってきて」
光を遮った初音の命令にやれやれと母が腰を上げた。

「あといくつ？」
「知らないわよ、なんでもあるだけ。あたしたちもまだ食べてないんだし。余ったら冷凍しとけば」
「おっけー」

母の声は気軽だ。心の悩みを全部吐き出して、身も心も軽くなったのかしら。そのせいだろうか、なんだかやけに、きれい。軽やかな足取りの後ろ姿は、とても五十を越えたようには見えない。

見送っていたのは自分だけではなかった。よりによって鋼と目があって、驚いた。力仕事で鍛えた体のせいか、息子たちと争う食欲だが、箸を持つ手を止めて、間違いなく母を見ていた。素知らぬ顔を茶碗で隠したけれど。

母を。
なんで？
小町さんほど食事時に役に立たない人はいないんですけど。

答えを求めて恋人を見たのに、あわてて目をそらされてしまった。ムッとする。なんなのよ、あとで覚悟しなさい。聞きたいことが山ほどあるんだからね。朝一番でこうなってる事情とか。

そうは言っても一番聞きたいことは聞けないだろう、まだ。相変わらず料理に余念がない葵の背中。過去を打ち破るあの強さに憧れながらも。

あたしは、あたしたちは。
どうするの。
どうなるの、とは。


乙女の声が物思いを破る。
「初ねえ、炒め物にするから野菜ちょうだい。デザートどうする？」
「作るひまなんかないわよ。果物切ろう」
「ヨーグルトあったっけ」
「なかったら店から借りてくるから」


兄と葵がうまくいって良かった。
それは間違いなく喜んでいるけれど。

せっかくの休みがてんやわんや。それもこれもぜーんぶ、彼のせい。
理屈や理由はどうでもいい、とにかく全部。
彼が悪いのよ！

だん、と振り下ろした包丁できゅうりを真っ二つにする初音に、乙女が隣でびびっている。


家族のために食卓をうめかせるのは平気なのに、一人のために食卓を用意することはためらう。自分の臆病さに気づいても、初音は苛立つことしかできなかった。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜　A table groans　/ end　＞