寒いのは苦手だ。冬も北風も。
なのにどうしてバレンタインは二月なんだろう。



「ここまで失敗されると天才的としか言い様がないわね」
「ヒデったら馬鹿言わないのぉ。こんなのに『天才』なんてつけちゃホントの天才の立つ瀬がないでしょうぉ。これはただの不器用ってのぉ。チョーチョー不器用ぉお」
「エヴァったら、ヒデミさんまでひどいー！」

抗議するものの、キッチンに広がる失敗作の数々故にショーコの声にも力はない。


バレンタインは現代日本では女の子の必須行事だ。もちろんショーコだってあげるのが初めてなわけはない。本命義理とりまぜて今までいくつあげたか思い出せないくらいだ。それでも今年は特別、そう思いたい。こんな風に好きになった人は初めてだもの。生まれ変わった自分の初めてのバレンタイン。特別なことがしたいと思うじゃない？

キングは味にうるさいけれど努力は認めてくれる人だから。得意ってわけじゃない料理だが決意したのだ。手作りチョコ。うん、やるっきゃない！　そうヒデミに漏らしたのが運の尽きだった。

「ちょっとぉ、キングに毒を盛るつもりぃ？」

エヴァに飛びかかられて驚くわびびるわ。毒？　誰が毒？　ヒデミが片手で拝んでくる。ああもう、ヒデミさんたら。

「キングの口に入るならあたしがみっちり仕込むわぁ。タダにしたげるぅ。問答無用ぉ！」

かくして特訓が始まった。場所はブーケのキッチン。実はエヴァは調理師の免許を持ち、料理の腕もかなりなものだと知ってショーコはびっくりした。厳しい先生と日を重ねるに連れてわかってきたこと。ショーコの味覚は悪くない。包丁だってそれなりに使える。でも。

「……お菓子作りって別物なんだ」
「たまにいるのよねぇ、そういう人ぉ」

がっくりしたショーコにエヴァは冷たく言い放つ。一応初心者向けにとあれこれレシピを考えてくれたのに、ことごとく失敗するものだから眉間に皺が深く刻まれている。ビスケットは柔らかすぎ、スポンジは固すぎ、クリームはゆるすぎ、チョコは焦がす。ヒデミの言葉は当たっている。確かにある意味天才的だ。

「もうやだ……いたぁっ」
今日で三日目。疲れ果てて椅子にのけぞったショーコの頭をエヴァが容赦なくはたいた。

「やなのはこっちぃ。教え甲斐がないったらぁ。やめるのぉ？　やめるのねぇ？」
「やめないっ、けど………けどぉ」
頭をなでさすりながら涙目でエヴァを見上げるショーコに、ヒデミが苦笑してとりなそうとする。

「まあまあ。ぶきっちょなのは確かだけど、ってショーコ睨まないでよ」
「うう」
「努力は認めてあげなさいエヴァ。とびきり簡単な奴。エヴァなら知ってるでしょ？」
「まったく。ヒデはショーコに甘いんだからぁ」
真っ赤な唇を尖らせてエヴァが腕組みする。

「最後のチャンスよぉ？　いい？」
「うんっ」
「勢いばっかぁ」
「エヴァ、押さえて」

文句を垂れ流しながらもエヴァが教えてくれたのはフォンダンショコラの簡易版だった。チョコを溶かしてバターを混ぜ、卵も砂糖も薄力粉もとにかく混ぜるだけ。あとは型に入れてオーブンへ。

「これで駄目ならほんとに救いようがないんだけどぉ」
「神様ー」

祈るべきは何の神様だろう。ああ誰でもなんでもいいから。オーブンの前でショーコは力の限り祈った。人生でこれほど祈り続けたのは初めてかも知れない。チーンと、焼き上がりの合図が厳おごそ　かに聞こえたのも空耳じゃないと思う。

「できたっ！」
「……助かったぁ」
「疲れた……」

虚ろな目を見交わすエヴァとヒデミをよそに、ショーコはぴょんぴょんとキッチンを跳ねまくり、今にも何かをひっくりかえしそうだ。
「静かにしなさぁいぃ！」
ヒステリックなエヴァの声が響き渡った。

その後、当日のためにレシピをおさらいし、材料から何から全てそろえてもらって、ショーコはエヴァとヒデミに何度も礼を言った。そこでふたりから差し出されたもの。リボンの包みはどう見ても。

「えっ？　……と」
「あたしのはねぇ、○○のスペシャルチョコ。二粒でうん万円よぉ」
「万？」
「あたしは一粒だけど極上。キングの好みなら任して」
「はあ」
「「当日、キングに渡してねーーーっ」」

タダより高い物はない。自分が作るより美味しいに違いないチョコを、一緒に渡さなきゃならないとは。がっくり肩を落としたが断れるはずもなかった。こりゃなおさら頑張らなきゃと気合いを入れたが、そんなときに限って計算は狂う。


「キング？　え？　どこ行くの？」
バレンタイン当日土曜日。昼過ぎに起き出したショーコが見たのは、家を出るばかりの支度をしたキング。足元にじゃれつくジンを払う、その手にボストンバッグ。まさか。

「ジンやめろ。ちょっと急用でな。二、三日かかるかもしれん」
「うそっ」
「急ぐから。戸締まり気をつけろよ」
「いつ？　帰りはいつ？」
「わからん」
「待って待って、えっと」
混乱しながらもとりあえず冷蔵庫に入れておいた預かり物を取ってくる。一緒に渡したくても自分のはまだ影も形もない。

「これ、エヴァとヒデミさんから」
「……そうか。バレンタインか」
ふっと笑ったキングはどちらもボストンに放り込むと、ぽんとショーコの頭を撫でた。
「じゃな」

ぽかんと見送ったショーコが我に返ったのはドアが閉まってから。
「……行っちゃった」
消えた主の代わりにショーコにじゃれつくジンを、無意識に抱き上げて抱きしめながらうなだれる。これじゃただの宅配屋だ。
「……まけるもんか。ジン、あたし頑張る！」
「みゃー」

ささやかな応援も慰めになった。わからないってことは、今夜帰ってくる可能性もある。そうよ。落ち込みそうになる気持ちを奮い立たせて、ショーコは予定通りフォンダンショコラの準備をした。夕方になってから慎重に焼く。少し時間を短めにして、キングが帰ってきたらもう一度火を入れるようにとはエヴァの助言だ。

よし、上手く焼けた。仕上げにアイスを乗せたらきっと美味しい。甘い匂いにヒゲをひくつかせるジンを抱き上げる。

「ほらほらジン見て。すごいでしょ。キングまだかな？　……帰ってくるよね？　帰って来て。帰って来ようよー！」

ジンをふりまわし活用形で懇願しながら、キングの帰りをショーコはひたすら待った。けれど。無情に時は進みジンもソファで丸くなり。携帯の液晶はとうとう日付が変わってしまった。

オーブンレンジで食べられるのを待っているフォンダンショコラ。
せっかく作ったのに食べてもらえないフォンダンショコラ。

ぐっと唇をかみしめた鼻をすすりあげる。コートとマフラーをひっつかむとショーコは外へ飛び出した。



バレンタインの夜だ。ブーケは人が一杯、恋人のいる者もいない者もテンションあげて盛り上がっている。そこに乱入してきたのは。

「エヴァぁあーっ！」
「ちょっ、ショーコぉ？　営業中は来るなって言ってあるで　……どしたのぉ」
怒鳴りかけてやめたのは鼻水と涙でびちょびちょのショーコの顔があまりに情けなかったせいだ。

「ふぉっ、きっ、でっ」
「はあぁ？」
「あああーん！」
「ショーコぉ？　こらぁ、この子はもうぉお」
抱きついて泣き出したショーコに呆れるやら笑うやら。さすがのエヴァもお手上げだった。

「アダムぅー、ヒデに連絡いれてぇー」
「オーライ」
仕方なくショーコを控え室に連れていったエヴァは、連絡を受けてやってきたヒデミと共に、泣き疲れて眠るまで見守ってやる羽目になった。

「まったくガキなんだからぁ」
「しょうがないわよエヴァ。いわば空振りだもの。それも自分だけ」
「あたしとヒデの分をちゃんと渡すあたりが律儀りちぎ　よねぇ」
「まさしく不器用」
エヴァのネイルで彩られた指先がくうくうと眠るショーコの髪を梳く。

「でぇ。ヒデは本命には渡したのぉ？」
「キング？」
「馬鹿いってるぅ。どっかのセレブに決まってるじゃないぃ？」
「……今、日本にいないから」
「あらまぁ。野暮ねえ。戻ったらぁ？」
「内緒」
「ケチぃ」

ヒデと竹園はまだまだ恋人まで行かぬまでも、スローペースでつきあっている。エヴァの見るところ、ヒデもまんざらではないはずだが。まぁいいか。

「エヴァこそアダムにちゃんとあげたの？」
「内緒ぉ」
「ケチ」
顔を見合わせて笑ったところでアダムが呼んだ。

「エヴァ、キングが」
「キングぅ？」
エヴァがあわてて店に出るとカウンターにいるのはまさしくキング。いつ見てもいい男っぷりはエヴァの元気の源だ。

「チョコレート、美味かった」
キングのひと言にぎろっとアダムの眼が鋭くなるが、エヴァは至って平然と構える。
「でしょぉ？　あれ高かったんだからぁ」
「悪いな」
「出かけたんじゃなかったのぉ？」
「入れ違いに片付いてとんぼ返り……って誰に聞いた？」
「ショーコに決まってるでしょぉ」
「いるのか？　こんな時間にいないからどこへ行ったかと」

彼が微かに見せる安堵におやおやとエヴァは思った。どうやらショーコを探しに来たらしい。まるで子どもの心配する母親だ。でなきゃ？

「もう大泣きだったんだからぁ」
「どうして」
「どうしてもぉこうしてもぉ」
「バレンタインだってのに、本命がいなくちゃ泣くしかないでしょう？」

エヴァの後ろからヒデミも顔を出す。キングの表情がいつものサングラスで読み取れないのが悔しいと、思ったのはどちらも同じだった。





チーンと鳴った音にショーコは眼を開けた。オーブンレンジだ。この数日何回聞いたかわからない。嫌ってほど耳に残ってる。でも。あれ。自室にいるのはどうして。

のろのろ記憶が戻ってくる。そうだ、キングが出かけて帰ってこなくて……まって、でも、あの気配は。

布団をはね飛ばし転びそうになりながら飛び込んだリビングダイニング。振り向いたキングはスーツの上着を脱いでシャツを腕まくりした格好。片手にスプーン、片手にアイス。足元にやっぱりジン。

「起きたのか」
「キング！　帰って……あれ？　あたしブーケに………あー！」
指さしたのはキングの手元、ショーコの作ったフォンダンショコラ。

「それ！　焼かないと！」
「言われた時間じゃ足りなかったから１分足した」
「へ」
どうしてキングが時間まで。首を傾げたショーコを尻目に、キングはアイスのふたを開ける。

「エヴァからお達しされてるぞ。事細かに」
「は？」
「不器用の努力の結晶だから心して食べろ、だそうだ」
「……エヴァが？」
「ヒデもな」

しなやかな指がくるりとスプーンですくったアイスが、ショコラに乗せられる。すぐに熱で溶け始めた。腰を下ろすキングにあわてて、ショーコは彼の向かいに座った。

夢にまで見た光景だった。自分の作ったショコラが、彼の短い口ひげに縁取られた唇に吸い込まれていく。まるで自分の肌を愛撫されるような錯覚さえ覚えて、期待と緊張で息をこらす。

「うまい」
「……ほんと？　ほんとに？」
身を乗り出して問い詰めるショーコに、くっと喉を鳴らしたキングは、またひとすくいしたショコラをスプーンごと差し出した。

「確かめれば」
何も考えずにパクッとスプーンを口に含む。冷たさと熱さ、甘さと苦さがするりと喉を通りすぎる、その快感。

「……美味しい」
「だろう？」
サングラスをはずした彼の金の瞳がきらめく。食べるキングから眼が離せない。ううん、眼だけじゃなくて。
「もっと」

意外そうに眉を上げたキングがふっと笑む。またショーコに差し出される一口。甘くて冷たくて。
「もっと」
「俺に作ってくれたんだと思ったが」
「もっと」

彼が手を伸ばす。ふらふらと請われるまま隣に座ると、たっぷりのショコラを口に含んだキングが、身をかがめてくる。
「ほら」

唇を合わせられて、その甘さに舌が伸びた。

甘い。熱い。冷たい。苦い。甘い。
両腕が彼の首へ伸びる。膝に乗る。キスを深める。深く深く。
熱い。冷たい。熱い。寒い。

……寒い？


そこでキスは途切れた。眉根をよじれさせてキングがショーコの額に手を当てる。

「ショーコおまえ、熱があるじゃないか」
「……ね、つ？　……ふぁ？……ん」

頭が後ろへ重くなる。くたっとキングの腕の中に崩れたショーコは、微かにジンの鳴き声を聞いた。





一生懸命がんばって、頑張りすぎたご褒美が知恵熱なんて。

翌日と翌々日の丸二日、ショーコは布団から出られなかった。滅多に出さない熱にすっかり参って半べそかくショーコのそばに、キングがずっといてくれたのはせめてもの慰め、見舞に来てくれたエヴァの表現を借りれば「最大級の贅沢」か。あの夜をよくよく思い出すと、ものすごく惜しいことをした気もするが。

「キング」
「なんだ」
「キスしたいよ」
「良くなったらな」

ショーコの額からピッと冷えピタを剥がした彼が、美味しいおかゆを運んでくれる。まあいいかなんて思う自分はやっぱりまだまだお子様かもしれない。

熱いおかゆをレンゲで吹きさますショーコを、ベッドの横から本を手にキングが、ベッドの上でジンがしっかり見守る。強い風に窓が震えた。良いお天気だが春一番らしい。


春が、来る。


お腹はいっぱい。布団にくるまったショーコの口元に幸せな笑み。パタパタと布団を叩くのはジンのしっぽだ。見上げたキングのサングラスが、差し込む陽にちかっと光る。その口元にもショーコとそっくりの笑みが浮かんでいた。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜　Choco Fever　／　end　＞