カットカフェ 『スタイル』 は繁華街のメインストリートにある。店は通りに沿ったガラス張りの作りでカットやシャンプーが通行人から丸見え。そこが逆にちょっとした芸能人気分になれると人気だ。

ここに勤めてヒロは３年経つ。腕とルックスを兼ね備えた彼は、シザーズでは優勝こそ逃したものの賞を取ってさらに株を上げた。捌さば　ききれぬほどの指名客が押し寄せ、トップもすぐそこだ。

そんな彼がこのところ、密かに悩まされているのは。


「すごかったねー。格好良かったよ、ヒロ」

向き合った鏡の中、テンションの高い客の褒め言葉にヒロは笑んだ。常連の彼女は近所のクラブに勤めるホステスで、何かとシザーズを話題にする。そうでなくとも接客中だ。笑みを絶やすわけにはいかないが、シザーズのことになるとヒロは顔が強ばり気味だ。


「あの娘、ショーコって言ったっけ。何度か見たことあったけど」

この名前には特に。


「びっくりした。たいして目立たない娘だったのに」
「そこがシザーズだよ。ヒデミさんすごかった。オーラがあってさ」
「そうオーラ。あの娘、変身したらオーラがみえたよ」
「……あはは」

微妙に話題をずらそうとしているのがわからないのか。鈍い。きっと勤め先でも受けが悪いだろう、なんて乾いた笑みの下でヒロは思った。



仕事も恋愛も自分の思うようにしてきた。ショーコだって最初にナンパしたのも自分。一緒に暮らそうと誘ったのも自分。終わらせたのも自分だ。荷物と一緒に路上に放り投げ、文字通り捨ててきた。

まさかこんな風にリベンジされようとは。ショーコを思うたびに感じる苛立ちの正体。怒りだと思っていたしそれなら対処できたのだが。



美容学校を出て就職したのは都心から少し離れた美容室だった。そこで３年。縁あって引き抜かれ 『スタイル』 に移ってさらに３年。思い返せば幸運は去年の暮れ、ショーコと一緒にやってきた気もする。

出会った直後に人気雑誌のヘア特集にとりあげられ、知名度はぐっと上がった。一緒に暮らし始めてから指名が急増し、予約が２，３週間先まで埋まるようになり、とうとう決まったシザーズへの出場。 『スタイル』 に入った時から憧れていた、望んでも出られるわけではないコンテスト。選ばれたことがすでにステータスとはいえ、出るなら勝ちたい。

優勝するため選んだモデルに「つき合ってくれたら」と言われて二つ返事で承諾した。美人だし後腐れなさそうだし、ショーコの代わりに丁度いいと。ヒロにとってショーコは路上の石ころ。拾ったものを捨てただけのつもりだった。

彼女がヒデミのモデルになったと聞いてムクムクともたげた感情は、実はずっと胸の底に澱おり　のように溜まっていたものだと、この頃ようやくわかってきたのだ。



繁華街でナンパしたにしては他愛ない娘だった。触れ合うことが好きで、手をつないで抱きしめてキスするととろけそうに笑った。そのくせsex　になると固まるとは言わないまでも、受け身で流されるのみ。楽しむよりは耐えることに必死だった。そのギャップが謎で不満で。

何よりヒロを驚かせたのは髪だ。職業柄、他人の髪、それも女性の髪には必ず目がいく。化粧もしないショーコをヒロが誘ったきっかけも髪だった。不思議な色合いと手触り、手入れもしてない洗いざらしの切りっぱなし。

自分でカットしてるのは一目瞭然だったが、金がないとか気にしないとか、それくらいの理由しか考えなかった。まさか、切ることに病的なほど抵抗があるなんて思わないだろう、普通は。


一緒に住み始めて２ヶ月目だった。それまでも何度かカットをほのめかしたヒロに、ショーコはのらりくらりかわしてばかり。どうしても切りたくなって、その夜切らせろと迫った。

プロが、それも人気美容師がただで切ってやると言って嫌がる女は少ない。なのに彼女は逃げ回った。強引に座らせてハサミを入れたら目を剥いて震え始め、驚くヒロの前で椅子から転げ落ち、呼吸困難。死んでしまうのではないかと気が気じゃなかった。救急車の中、横たわるショーコの手を握しりめ、見守るしかなかった無力感と恐怖。

あれきり彼女の髪を切るのはあきらめた。その後は別れるタイミングを計っていただけかもしれない。髪に触れるたびおびえる様子や、sex　の時の人形みたいな表情、そのくせ肌のぬくもりに焦がれて乞う。矛盾だらけの彼女の内面に、踏み込む意志も勇気もなかった。要するにヒロは逃げたのだ。

逃げた。
徹底的に、思い切り恥をかかせて捨てたのに。
今になってどうして。



「シャンプーしますのでこちらへどうぞ」

カラーリングした髪を洗い流すため、客を誘導する。カットの技で認められたヒロだが、実はシャンプーも得意だった。彼の指にうっとりする客も多い。カットは嫌がったショーコも彼のシャンプーは喜んだ。おねだりするほど。


『ふわぁ〜天国。ヒロってシャンプーの天才〜』
『俺はカットの天才なんだって。なあ、ちょっとハサミ入れればおまえ、最高にかっこよくなれるぜ？　切らせろって。な？な？』
『んー……』
『人の話を聞け！　寝るな！』

あの頃、ぶつぶつ言いながらもヒロがシャンプーの手を止めなかったのは、髪の手触りとショーコの表情がどちらも心地よかったから。ヒロをも幸せな気分にさせたからだと、今頃思い至る。


ヒデミのモデルになると聞いたとき、嘘だろと耳を疑った。また倒れるぞと焦った。本人に肯定されてからは、できるもんかと高をくくっていたヒロの予想を、ショーコは見事に裏切ってくれた。

舞台の上での突拍子もない格好より何より、エクステを投げ捨てた彼女にぎょっとした。ばっさり露わになったうなじに心臓が止まりそうだった。決して切らせなかったのに。気を失うほど嫌がってたのに。

悔しかった。
そう、悔しかった。

ショーコは髪を切らない。いつか切らせるとしたら相手は自分だ。虫のいい話だけれどそう信じていたことにあの時初めて気づいた。


潜んでいたのは自分でも知らなかった彼女への未練。認めたくなかったのは、慣れているように見せて決して心を許さなかった、警戒心の強い猫みたいなあの娘に、ほんとうは惹かれていた事実。





「お疲れ様でした。こちらへどうぞ」
「はーい。……あ、あれ、ショーコ！」

ヒロはもちろん店中の視線が指さされたガラスの向こう、通りを行きすぎるショーコに向けられた。見られているとは夢にも思っていない彼女の、軽やかな足どりは舞台と同じ。


シザーズでのショーコはヒロのことなど振り切っていた。見事にモデルをやり遂げ優勝した上、あのキングに告白という命知らずなパフォーマンスまでやってのけた。振られたように見えたが、風の噂ではうまくいったとかどうとか。

何より彼女自身が物語ること。あの、手入れもしていない伸ばしっぱなしの髪はもうない。三角形の小顔を包み込むようなショートと生き生きとした表情。以前よりもずっとずっと綺麗になっている。なっていく。



「なんか、いいよねぇ」
「……そうですか。お客様も負けてませんよ。新しいスタイル、試してみますか」
「そう？　うんお願い」

まんざらでもない笑顔の客ににっこり頷いたヒロだったが、胸にはまた苦い雫が波紋を作る。



わかってる。
ふたりはもう他人。下手をすればそれより遠い。
なのに今になって思う。

もし、髪を切れない理由をショーコに聞いていたら。
もし、そのトラウマと向き合っていたら。
もし、彼女とシザーズに出ていたら。

if　if　if　．．．
役にも立たぬ仮定ばかり繰り返している自分が情けない。
もう、やめろって。



『スタイル』 の檜垣芳弘。多くの美容師の中で今イチ押しの彼も、澱よど　んで消えぬ悔いは時に流すしかなさそうだ。初めての敗北感はいつになったら忘れられるのか。


「いらっしゃいませ」

やってきた指名客に挨拶しながら、もう一度見遣ったガラスの向こう、急に彼女が走り出す。短くなった髪を上下させてとびついた先には、言わずとしれたサングラスの男。ショーコの後ろ姿がはしゃいでいる。


ヒロの胸は性懲りもなくまた、痛むのだった。





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